超新未来神学

『聖霊を冒涜する者は、

この世でも後の世でも赦されることがない。』

2024年2月 最新版

 

今回のお題は非常に難解な聖句です。

謎と秘密が有るので、二千年たっても

未だ未解決の聖句です。

イエス様が言われた、

聖霊を冒瀆する者とは誰なのでしょうか?

冒瀆とは何を指しているのでしょうか?

 

 

この聖句部分を読んでみましょう。

 

ルカによる福音書/ 12章 10節
人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。

 

この場合の人の子とはイエス様を指しています、ですから

イエス様の悪口を言っても赦されるけれど、聖霊を冒瀆する者は赦されないという事。

マルコによる福音書/ 3章 28節~29節
よく言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。
しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる。」
 

この場合の人の子というのは人間の事をさす。

だから人間の悪の行為は赦される、だが聖霊を冒瀆する者は

永久に赦されないで罪に定められるという事。

 

 

ふたつの聖句は其々矛盾しているように読める。

 

ルカによる福音書/ 12章 10節は、人の子であるイエス様も

神様であり聖霊も神様なのにイエス様には赦されて聖霊には赦されないという。

 

マルコによる福音書/ 3章 28節~29節は、人間の罪はどんなであっても赦されるけれど、聖霊への冒瀆をする者は罪に

定めら永久に赦されないという。

 

もうひとつ聖句を読みましょう。

マタイによる福音書/ 12章 31節~32節
だから、言っておく。

人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される。
しかし、霊に対する冒瀆は赦されない。 
また、人の子に言い逆らう者は赦される。
しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない。」

 

この場合の人とは単純に人間の事、人の子とはイエス様の事です。
 

何でもが赦されるはずなのに、聖霊に対しては赦され無いと

イエス様は言った。

 

 

何かぁ矛盾しているのではないか?というのが

疑問であり謎です。

 

今までの神学的解説は概してこうです。

学者らはこう言います。

 

人の心の奥の奥まで来て優しく語り、導くように神様の

愛を知らしめる聖霊を冒瀆するような人を神様でさえ

その人を赦しようが無いという事らしい。

 

私、それ何??と思った。

 

人を赦せない神様ならいらないし、

神様はそんなお方では無いのですが?、。

ハテ?

 

 

いい加減だなー。

 

結局解らないって事を誤魔化して

いるだけ、、。

 

100年前の神学からまだ進んでいない。

 

いや、、2000年前から、、かぁ、。

 

誰かが彼らをデクノ坊と言っていました。フフ、、ハハ。

 

昔から聖書学者は、エジプトや死海周辺の地域に行って

パピルスの破片を地元の業者から買ったり、

または、自分で発掘し発見したとして持ち帰り、

聖書の新発見が有ったなどと言って不確かな発表をして

お金儲けをしていた。

 

そんな彼らは、先生、先生とおだて祭られているわりには、

人を納得できるような、たいした学説はほぼ皆無。

 

中にはユダヤ教徒でもクリスチャンでも無い者も

聖書学者だと自認していた。

 

何かがおかしい、、。

 

 

 

ここから、私が皆さまにお話します。

 

祈り、、・・・略、、。

 

まずはイエス様の事から、、。

 

イエス様は罪ある人間のため、罪を

赦し開放なさるためにこの地上来られました。

イエス様は神様に人の全ての罪の償いのため十字架上の

戦いで悪(サタン)に神様への愛と従順で勝ち、

人がイエス様を
心から信じれば罪から救われるようになさって

下さいました。。


しかし、聖書の記録でイエス様はこのように言われました。
人には、その犯す全ての罪も神を汚す言葉も赦されると、

言いましたが、
聖霊を冒涜する者は、この世でも、きたるべき世でも、

赦される事は無いと。

 

来たるべき世とは、広い意味で霊界ですけど、

神様の愛で覆われている本当の神様の世界の事です。

 



イエス様でも赦すことができない罪が有るという事

なのでしょうか?


そんなことは無いはずです。


聖霊を冒瀆し汚すことは罪ですが、その全てを赦さない

わけではないでしょう。

しかし、それでもイエス様が敢えて言及するには

それ相応の理由が有るのです。

 

それは?


聖霊を冒瀆し汚すいくつかの罪の中に絶対に赦し難い罪が

あると考えられます。

 

いくつかの罪と私が言ったのは、単に聖霊など居ないとか、

聖霊は力が無い、などを含む単純で重くはなさそうな

罪です。言うなら遠吠え的な悪口。

さて、
聖霊とはいったいどんな存在なのでしよう?。

神様とイエス様と聖霊はどんな関係?。

 

三者は三位一体という関係だとされています。

カトリックの司教であり神学者のアウグスチィヌスは

三位一体の関係を、「言葉を出すもの」を父、

「言葉」を子、「言葉によって伝えられる愛」を聖霊

という類比によって説明し、

そして働きが異なるが本質は同じで三者は一体と説明した。

 

でもね、私からいうなら、浅いなと思います。

アウグスチィヌスさんゴメン、。

と言うのは、子も成長して父になりますから、

子の中に将来の父を内包しているのです。

人間を考えたら解りますね。



父は、外形的にイエス様を送り出した

お方。(送り出されたように思えるけれど実際は自発的)。子はイエス様、。

聖霊は?
聖霊は何? 

イエス様は神さまですが、人としては神様の子です、世界を創造する前から、人を創造する前から、このようになるべきとした人の完成の型です。

 

言わば罪無く完成されるはずだったアダムです。

 

逆に言えばアダムはイエス様を手本(型)として創造した

といえます。


しかし人間アダムは罪を負ってしまった。

なので神様からみれば未完成。

さて、アダムに神様がエバをお与えになりました。

人がひとりでは良くないと言われて、、ですね。

イエス様のようになるべきアダムには神様は当然のごとく

エバを与えたこと、ここに注目します。


創造に於いて、
神様は人を自分の形に似せてつくられました。

 私は以前から、父と子と聖霊は創造の神様と

神性を元々持ったイエス様と、ある女性的な神様である

と公言していました。

イエス様と対を成す女性的な神様それが聖霊だと思っています。アダムにエバがいたように、です。

 

神様が三位一体なので、イエス様は婚姻した男と女については、一体であり、分けられないのだと言いました。

 

人は神様の似姿ですから、逆に人を見れば似姿の「元」になった神様が解るのです。「元」は型と言っても良いでしょう。

 

神様の似姿の根拠聖句:この場合新共同訳が解りやすいので

新共同訳:創世記/ 1章 26節
神様は言われた。我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・・」

勘違いする方がいますので、

ここで言っておきます。我々とは創造の神様と天使たちの事だったのですが、創造過程では天使は創造に直接的には

加担していません。天使を加えて、似せての創造ではありません。天使は創造する神様を賛美していただけです。

それなのにどうして我々に似せて?と記されているのかは、

既に記事にしていますので、ここでは割愛します。

聖霊は神様のあるべき姿、また神性をもったエバの型、

女性の完成すべき手本のようなものと考えます。

神様の神性をもって命あるものの(すべての)母となる、

聖書もそう書いています。

創世記/ 3章 20節
人は妻をエバと名付けた。

彼女がすべての生ける者の母となったからである。




母になるには夫が無ければ子供ができません。

聖霊も命ある全てのものの母なのです。
しかし神様においては別々のものではなく、

やはり三者は一体なのです。

それでは、聖霊に対しての赦されない罪とは?。

また、冒涜、言い逆らうとは?

 

前置きが長いですかね?

ごめんなさい。

でも大切な事なのです。

 

もう少しです、、。


創世記に神様の園の話が寓話的に書かれています。
主なる神様は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、

人がそこを耕し、守るようにされた。 


主なる神は人に命じて言われた。

 

 「園のすべての木から取って食べなさい。 

ただし、善悪を知る木からは、決して食べてはならない。

食べると必ず死んでしまうから。」 
神様は全ての木の実は食べてよい、しかし善悪を知る木の実は禁止しています。

ここにも、全ては良いが、これ(例外?)はいけないと、

聖霊への罪の話の時のような言い方をしています。


そして、世界で最初に神様の言葉に言い逆らい、冒涜する者が次に出てきます。



主なる神様が造られた野の生き物のうちで、

最も賢いのは蛇であった。

蛇は女に言った。 
「園のどの木からも食べてはいけない、と神は言われたのですか。」 
女は蛇に答えた。 
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、
死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 

ここで、女は、だからこの木の実は食べられないと

言っています。
しかし蛇は言い返します。

 

ここです!蛇は言い逆らったのです!


皆さま、ここ、、蛇が言い返す事を心に留めておいて

下さい。

 

 

蛇は女に言った。 「決して死ぬことはない。 

それを食べると、目が開け、神様のように善悪を知るものとなることを神様はご存じなのだ。」 

蛇のこの言葉は神様を冒涜しています。神様は嘘をついていると言うのです。


そして女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付けます。

ついに女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 

二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、

二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、
主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 

彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、

恐ろしくなり、隠れております。
わたしは裸ですから。」 
神は言われた。 「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 

アダムは答えた。 

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、

木から取って与えたので、食べました。」
 
主なる神は女に向かって言われた。

「何ということをしたのか。」 

女は答えた。 
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 

主なる神は、蛇に向かって言われた。 

「このようなことをしたお前は あらゆる家畜、あらゆる

野の獣の中で 呪われるものとなった。 

お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」 

 

 

戒めを破った罰で追放されたアダムとエバ

 



この部分は神様が蛇に言っているところです。お前と女、

お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。とは?

蛇はサタンです。サタンと女との子孫に敵意と、。

 

不思議ですね。

皆さまこの聖句部分、不思議では無いですか?

 

サタンである霊的存在と人エバとの間の子孫が将来存在するという事を神様は言及している事になるのですよ。

 

その事は原罪に関係する事だし、原罪の秘密を暗に

表している事になるのですが、それについての詳細は

既に記事に

していますのでここでは割愛します、。

 

いや、、でも、簡単には記しておきます。
この子孫はエバ以降の
人間のことを指しています。

 

後年、洗礼ヨハネも、イエス様も民をマムシの子よと

呼びました。マムシは蛇です。
蛇はサタン、サタンの子と呼んだのです。

 

ヨハネの黙示録/ 12章 9節
この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、
全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。

 

「いにしえの蛇の」、いにしえとは、遠く過ぎ去った過去という意味です、それはアダムとエバと蛇が登場した失楽園の聖書物語の時とその前の神様に反逆した時を指しています。

エバの罪はこの蛇すなわちサタンの言葉の誘惑に負けたことから始まります。

神様の御言葉を信じず

サタンの言う言葉を信じたことです。

そして女は男にもこの実を食べさせた。

二人ともサタンのいう言葉を信じてしまったのです。

ここからが罪の始まり、それが原罪。


食べる前までは無原罪であったのに、です。
ここで、さっきの神様のお言葉を思い返しましょう。

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に 

わたしは敵意を置くです。

これは、サタンと女そして、その子孫に敵意を持つと

神様は言っています。

これはサタンと女との間に子孫が存在すると言うことです。存在といいますか、生まれるです。
霊的な存在のサタンと人との間の子供?ということでしょう?。
これは、こころをサタンに奪われるという親の要素を子孫が引き継ぐ事で、この要素が子孫に残ると言うことなのです。

 

神様は女に向かって言われた。 「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。 

お前は、苦しんで子を産む。 お前は男を求め 彼はお前を支配する。」
 
神様はなぜ女に出産の苦しみを大きなものとして

このとき与えたのか? 

なぜわざわざ人の子の生まれることに苦を抱かせるのか? 

やはりそれは、

性に関係することだと考えることが自然でしょう。

神様はサタンにもその子孫のこと、女にも子供のことで

裁きの言葉を言われている。
やはり罪のための裁きの言葉は性に関する罪を断罪している。
したがって原罪は性の罪が根本としか思えません。

木の喩えはよくイエス様も、お使いになられています。

良い木、悪い木、ぶどうの木、等々。
木は人または存在を比喩しています。

 

蛇足ですけど、

日本神道でもなぜか戦死した人を軍神として数える時、

ひと柱、ふた柱とか柱(木)で数えます。

 

善悪を知る木も植物の木ではなく或る者の比喩か

例えなのです。


実際この木の実を食べて、罪を犯したことをはじめて知り、

アダムは神様から隠れようとしました。


自分が裸にも気づきました。 

 

悪魔の誘惑に女が陥り、そして女はアダムにも

その罪を伝えた。

そして神様はこの三者に一代で終わらず、

その子孫にまでも裁くとおっしゃっている。

 

子孫にまで引き継がれるとは、、何という事でしょう。

罪の源は性に関係する事です。

性的関係なしでは子孫は存在しないからです。

それからこの聖句をもう一度注意深く読んでみましょう。

 

マタイによる福音書/ 12章 31節~32節
だから、言っておく。

人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される。
しかし、霊に対する冒瀆は赦されない。 
また、人の子に言い逆らう者は赦される。
しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない。」

 

創世記で言い逆らった者は誰でした?

 

蛇に例えられてサタンでした!

サタンは神様のみ言葉、善悪知るの木から取って食べるな、

食べれば死ぬ、

との戒めを言葉たくみに曲げて食べても死なないとダマしたのでした。

結果は肉的には死なないけれど、霊的には死にました。


聖霊を冒涜するものは永遠に許されない、
の聖句で聖霊がエバの本来の愛を完成された、元の型であるならば、それに対する罪が赦されざる罪となるはずです。

エバを汚したのは神様の御言葉を否定し言い逆らって

エバに木の実を

食べさせたサタンでした。


それは聖霊を汚すことと同等の行いである、と私は思う。 

イエス様がお生まれになられたのは、神様の御業であり

聖霊の力が働いて生まれることが
できました。聖霊の協力でマリアはイエス様を産んだ。




文脈と無関係で申し訳ありませんが、

サタンはエバを誘惑する前にも罪を犯していました、。

 

元は天使だったサタンは本来の天使の役目を投げ捨て

神様に反逆したのです。

 

元天使のサタンがどうして神様に反逆したのか?

創造の順は設計では完成形が人でしたが、

実際に形になる過程では逆の順になるので天使の後に人が

創造されました。

(私、ここで進化論が間違いを指摘しています。)

 

それで、天使は自分が先だったのに、

後から生まれて来た(創造)人に、

なぜ自分天使が人を助けたり、、、或る意味従者のような

役目があるのか? と疑問を持ち始め、更には神様は

自分より人の方を愛しているのではないか?と

あらぬ疑いを持ったのです。それで、神様を憎み始め

反逆者となった。

 

後年、、使命者の間で似た事が記録された。

カインとアベルの事、長男カインは認められていないのに

弟アベルが神様に認められたと勘違いしてアベルを殺した事件。エサウとヤコブの時、父イサクは家督相続の祝福の時

本来は長男に与えるべき祝福を弟のヤコブにした事。

 

カインの時神様はこう言われていた。

創世記/ 4章 7節
もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。
正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。
罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」

 

神様の救いの摂理上、カインはサタンの立場になっていたのです。それで神様にサタンのように見捨てられたかのような、立場になっても、神様に反逆したサタンと同じような行動はとってはいけなかったのです。だから神様はカインに

罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。と言ったのですね。この場合の罪とは悪魔の思いの事でした。悪魔が陥った間違いをカインは克服する使命があったのです、、。でも、、ダメでした。

 

エサウとヤコブの兄弟の時は、一時期兄エサウは弟を憎みましたけれど、ヤコブの苦労の末の知恵と勇気によりエサウも折れて憎しみは解けました。兄エサウも含まれるのですが、

ヤコブは勝利したのです。エソウも自分を祝福してくれなかった父イサクへの疑義も、祝福を奪った弟ヤコブへの憎しみも解けた。

悪魔が天から堕ちた時の思いを彼らは超えたのです。

だから、勝利。ある意味悪魔に勝ったわけです。

話を元に戻します。

 

そしてサタンは更に赦されざる罪を行った。


 

エバは父神と子を含む聖霊を主体とした型を元とした

尊い存在でした。


赦されざる罪とは、聖霊を型として創造されたエバ

を冒瀆したことなのです。

聖霊とエバは、原初では、聖霊その者では無いけど、

聖霊≒エバ、、。

 

エバに冒瀆を働いた事、

それはイエス様と対を成し父なる神様と一体である

聖霊にサタンは冒瀆を働いたと同等と見なされる。

 

神様の理法は公平且つ基本贖いは等倍なので、

聖霊への罪は聖霊しか赦せないのです。

サタンの救いは、サタン(悪魔)自身が悔い改めて神様に

赦しを願い、神様の聖霊によってしか救われない。

悪魔は聖霊によってでしか救いの道は無く

イエス様でも救うことができないのである。

聖霊を冒涜する者は、

この世でも後の世でも赦されることがないとは
第一義に悪魔自身を裁くお言葉であったのですね、、。

 

補足

聖霊は霊です、人も霊を持つけれど、

人は生きている時は霊の目は開いていないので

霊を対象とする霊的対応はできません。

 

霊界も含めた被造世界で

霊と霊で対応できるのは霊的存在でしかできません。

 

天使は霊的存在として生きています。

 

本来、善の天使たちは神様に反逆はしないし冒瀆など

もってのほかで、しません。

でも、、。

 

堕天使となったサタンも霊的存在です。

 

神様である聖霊に霊として逆賊的な対応をできるは

サタンしかいないのですよ。

 

ヨハネの黙示録/ 20章 10節
そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者もいる。
そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。

 

とも書かれている。

重ねて書いておきます。

 

マルコによる福音書/ 3章 28節~29節を、

もう一度読みましょう。


よく言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。
しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる。」

 

これは英語訳Wold English Bibleでは、

Most certainly I tell you, all sins of the descendants of man will be forgiven, including their blasphemies with which they may blaspheme;

but whoever may blaspheme against the Holy Spirit never has forgiveness, but is guilty of an eternal sin"

 

the descendants of man 人間の子たち。

と、

whoever 誰であっても、、。

の違いがあります。

人間の子たちは、、何であってもゆるされる。

でも、誰であっても赦されないの誰であってもは、

人以外を含んでいます。と言いますか、

聖書は、ここで人以外を示唆していたのです。

 

聖霊を冒瀆できる人では無い存在は?

堕天使=サタンです。

 

それで、、サタンは聖霊にどのように、

冒瀆するのでしょうか?

最大の冒瀆とは?

 

その前に、聖霊とは、?

聖霊は人の命の源、つまり人類の母です。

 

それを知っている悪魔は聖霊にこう言うのです。

 

聖霊よ、あなたは人類の母ではない。

 

人類は私と共に罪を負っている。

 

だから、、

 

人類は私の子だ!

 

私の子孫だ!

 

人類は私のものだ!

と。

 

だから、サタン=悪魔は赦されないと

言い渡されてしまったのです。

 

つまり、結論として、

『聖霊を冒涜する者は、この世でも後の世でも赦されることがない。』とイエス様が言ったのは、サタンへの警告だったのです!

この被造世界は神様が創造された世界です。

絶対善の神様が造ったのだから、善の世界が完成形です。

 

だから、悪は滅ぼされる運命です。

でも、サタンは元は天使でしたから、

悪:罪を滅ぼす事でサタンは元の天使に

戻る事になります。

 

 

サタンの赦しについては、続きがありますけど、

長くなったので、今回はここで終わりとします。