超新未来神学

「人の子は、失われたものを

捜して救うために来たのである。」

 

失われたものとは何でしょうか?

 

一般に説教では、

徴税人の頭のザアカイに注目して

それをひとつの例にし、失われた者として

救われたのだと教訓的な事は話します。

 

まぁそれはそれで悪くは無いです。

 

説教者は最後は信仰的な教訓で締めくくる

必要がありますから、、ね。フフ。

 

しかし、皆さんは知っておいた方が良い事があります。

 

聖書は教訓の書物では無いのです。

神様の無限の愛を根本として永遠の命がかかっています。

 

今回の記事では、既存説教では語られなかった、

本当の事を含んで話ます。

 

少し長いけれど聖書を読んでみましょう。

 

聖句の間に大切な事を言っておきますので、

最後までお読み下さい。

 

皆さんが今まで聞いた事の無いお話をします。

 

聞いて驚いた貴方たちは、周りの人に語るようになります。

 

聖書協会共同訳 

ルカによる福音書/ 19章 1節~28節


イエス様はエリコ(イエリコ)に入り、

町を通っておられた。

 

以下の地図を見ますとエリコとエルサレムの位置関係が

解ります。近いですね。

 

そこに、ザアカイと言う人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。

 

頭(かしら)とは、監督とか指示命令をする立場の人

という意味です。ザアカイはそうした立場でした。

 



イエス様がどんな人か見ようとしたが、

(ザアカイは)背が低かったので、

群衆に遮られて見ることが

できなかった。

それで、イエス様を見るために、走って先回りし、

 

いちじく桑の木に登った。

 

 

いちじく桑の木とは何でしょうか?

見過ごす聖句です。

いちじく桑の木とはいちじくとは異なります。

実は似てはいますけど別ものです。

違う物だけど科は同じです、、。ちょっと複雑。

 

以下の写真を比べて下さると解るでしょう。

 

いちじく桑の実

 

いちじくの実

 

違うでしょう!?

ザーカイはいちじく桑の実、、本当のいちじくでは無く、

それに似た木の上にいたのです。

 

これは、聖書上、或る事を示唆しているのです。

 

いちじくの木はユダヤの民を象徴する事があります。

聖書での有名ないちじくの記述は

マルコによる福音書/ 11章 13節
そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。
いちじくの季節ではなかったからである。

が有ります。

 

このいちじくの記述はユダヤの民を象徴した文です。

いちじくの季節では無かったのに、イエス様たちは近寄った意味は?

遠くから見ても、認識できるくらい多く葉が茂っていたので、早生のいちじくではないか?

そうなら、通常では実のなる季節では無いけれど

実がなっている早生いちじくかもしれないと思ったからです。しかし、近づいてみたら、実は無かった。

木の葉の育ちでは、さも、実が有りそうにしているのに、

大切な実はなかった。

それは、見かけは有りそうにしているのに、、

つまりユダヤに信仰が育っているかのようにしているのに、

実際は信仰は無かったという事です。

 

ユダヤの信仰は見掛け倒しだったというのがいちじくの

話のほんとうの意味です。

通常のいちじくの木はイエス様が降臨したユダ族とベンヤミン族がまだ自治が許されて残っていた属国的自治国。

 

ザーカイはいちじく桑の木に暗喩された事で、それ以外の

失われた10のイスラエル部族だったのです。

 

同類だけど、違いがあるって事です。


 

 

いちじく桑は、いちじくの木に似てはいるがその物では

ない。

 

聖書では、何気なく、元になる植物的な科は同じだけど

 

ザーカイの立場がいちじく桑だとして象徴的に

表されていたのです。



そこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエス様はその場所に来ると、上を見上げて言われた。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。

 

今日は、あなたの家に泊まることにしている。」

木に登っていたのは、ザアカイだけでは無かったはずです。

大勢の人がイエス様を取り巻いていたので、平場では見えない人も大勢いた。

ひと目でも

イエス様を見たい民のいくらかの人はザーカイと同様、

木に

登っていたでしょう。

 

でも、ザーカイだけが指名されました。

ザーカイは嬉しかったでしょうね。

「泊まることにしている。」との訳ですが、ギリシャ語聖書では、もっと強い意味が有って、

泊まらなければならない、という意味がありました。

ザアカイの家にイエス様が泊まるという事は

何か深い意味が有ったのです。



ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

ザアカイがどうして喜んだのか?

その事は以下の記事にしていますのでそれを

ご覧下さい。

 

 



これを見た人たちは皆つぶやいた。

「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

人々はザアカイを罪深いと言っていますけど、

必ずしもモーセの律法に触れているというのでは無いです。

徴税人という職業自体が、その当時、ユダでは

軽蔑される職業だったからです。

世界の歴史を見ますと古代イスラエル社会のみならず、

お金を扱う職業や、羊を飼う者は

下層の人という認識でした。

古代イスラエルでは、羊飼いは人口登録外だったそうです。

 

死人、死体、を扱う職業も差別されていました。

日本でも、江戸時代、穢多という人たちが居て

牛馬などの処理をしていました。

彼らだけに許された職種だったため、結局お金が貯まって

いきまして、大金持ちがいました。

 

江戸時代の花魁

遊郭の吉原とかの花魁遊びができるのは

大大名とか大商人の大金持ちでしたけど、

実は穢多の人たちも、花魁遊びの常連だった。

意外でしょう?

 

時は過ぎ、、近現代では、お金を扱う職業の人

つまり銀行家が強い権力を持ってしまっています。

 

皮肉な事に?

 

むかーし、軽蔑していた職種の人に

頭を下げてお金を借りる事になっています。

 

良いとか悪いとかは言いませんけど、現代では

世界の金融を支配しているのはユダヤ人です。



しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。

「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。

また、誰からでも、だまし取った物は、

 

それを四倍にして返します。」

 

何もイエス様から断罪されてもいないのに、

ザアカイは財産を半分貧しい人に与えると言っています。

ん!? 悪人じゃない?と気づきませんか?

 

「だまし取った物は、」と訳されていますけど、

聖書協会共同訳の聖書訳を読んだ人は、

ザアカイはだまし取った物が既に有ると

思いますね。でもそれは違うのです、ギリシャ語聖書では

だまし取った物があるならば、、という仮定の事です。

だから、ザアカイが律法違反を犯しているという事では

ありません。

 

皆さんが思っているほど、ザアカイは悪人では無かった可能性が高いですよ。ザアカイはこんな軽蔑されている自分で

あるので、我ながら

情けないと思っていたかもしれない。

 

彼は常に救いを待ちに待っていたのです。

彼はよーく聖書を読んでいたのです。

商取引で違反していたなら律法に触れ、倍返しの罰則事を

知っていたのですから、、。ただし

4倍とは

わざと多く言ったのでしょう。

それこそ誠意の表れかも、、。

 

神殿には人目があって中々入れない職業だから、

神殿に行く事もできず。

ある意味絶望の日々を送っていた、そこに

イエス様が来たのですから、、会いたくて会いたくてしかた

なかった。

気持ちは、あの、長血の女性と同じです。

 

救われたい!、、その一点で。

 

罪深いとされた職業だったザアカイだったけれど、

ほんとうは、そうじゃなかった、。

彼を見下げている人より心は清い、と私は

思うのです。

 

職業で人の良し悪しを決めつけるのは、間違っています。

 

イエス様は愛のお方だからそんな事は解っていたのだからこそ、ザーカイの家に入ると大衆がいるその場、公の場で言ったのですね。



イエス様は彼に言われた。

 

「今日、救いがこの家を訪れた。

この人もアブラハムの子なのだから。

人の子は、失われたものを捜して救うために来たので

ある。

イエス様のみ言葉「アブラハムの子なのだから」というのは、その後に、「赦され祝福される」、という言葉が秘められています。

これはアブラハム契約をイエス様は言っていたのです。

アブラハム以来のその子孫と神様との契約です。

 

聖書では以下がその契約です。

 

創世記/ 12章 1節3節
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ/私が示す地に行きなさい。

私はあなたを大いなる国民とし、祝福し/あなたの名を大いなるものとする。/あなたは祝福の基となる。
 
あなたを祝福する人を私は祝福し/あなたを呪う人を私は呪う。/地上のすべての氏族は/あなたによって祝福される。」

 

ここで、知っておく事は神様が人と契約したならば、

人がたとえ契約を破ったとしても、

必ず祝福をするという事です。

 

ただし、何かで人の自由意志にのっとって導いた上です。

強制的にはしないです。

 

上記を言いますと、誰かはユダヤの選民思想と批判しますけど、まずはユダヤ人を祝福します、だけど同時にアブラハムの子孫を祝福するなら他の民族も、全人類も祝福を広げるという事です。

 

 

 

ここが重要です。ザアカイもアブラハムの子なのだから、

救われるのです。もちろん全人類も救われるのは当然です。

 

そして更にイエス様が重要な事をおっしゃっています。

 

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

 

人の子とは?イエス様自身を現した言葉です。

 

失われたものは?

この答えは以下の聖文の中に書かれています。

例えの中で、、。



人々がこれらのことに聞き入っていると、

イエス様は続けて一つのたとえを話された。

ご自身がエルサレムに近づいて来られたのに、

 

人々は神の国がすぐにも現れるものと

思っていたからである。

それで、イエス様は言われた。「ある身分の高い人が、

王の位を受けて帰るために、

遠い国へと旅立つことになった。

そこで、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、

『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。

しかし、その国の市民は彼を憎んでいたので、

イエス様もサドカイ派祭司たちに憎まれました。

イエス様も一旦帰天し、後日再臨します。

 

後から使者を送り、

『我々はこの人を王に戴きたくない』と言わせた。

反キリストはイエス様を王として認めませんでした。

同じ事です。



さて、彼が王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、

どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。

最初の者が進み出て、『ご主人様、あなたの一ムナで

 

十ムナもうけました』と言った。

主人は言った。『よくやった。良い僕だ。

お前はごく小さなことに忠実だったから、

十の町を支配させよう。』

二番目の者が来て、『ご主人様、あなたの一ムナで

五ムナ稼ぎました』と言った。

主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。

また、ほかの者が来て言った。

 

『ご主人様、これがあなたの1ムナです。

布に包んでしまっておきました。

 

ムナはミナまたはマネとも言います。重さの単位です。

どれくらいの重さなのか?現代の重さでは、こうです。

 

1ムナは50シェケルです。

1シェケルは11.4グラムなので,

ヘブライ語聖書では1ムナは570グラムです。

別途ギリシャ語聖書では340グラム。

 

ただ、この聖句の場合の10ムナの金(かね)とはギリシャ銀貨を指しているので10ムナは1000デナリオンを示している。

デナリオンはドラクマとほぼ同価値で1ドラクマは労働者の1日分の給与ですから、

1000デナリオンは労働者の1000日分の給与です。

現代人が1日1万とするなら、1千万円?となります。

ひとり1ムナを預かったのですから、ひとり100万円程度を預かっていた、ということです。



あなたは預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものも刈り取られる厳しい方なので、

恐ろしかったのです。』

主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を

裁こう。

私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。

ではなぜ、私の金を銀行に預けなかったのか。

この当時銀行は無いです、両替屋という意味です。

 



そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』

そして、そばに立っていた人々に言った。

『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』

僕たちが、『ご主人様、あの人はすでに

十ムナ持っています』と言うと、

主人は言った。『言っておくが、誰でも持っている人は、

さらに与えられるが、

持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。

 

真摯の信仰を持っている者は更に祝福を与えられる

という事です!

 

はい、ここでも重要な事を話します。

これらの話はたとえ話であり寓話であり警告預言です。

いや、警告預言はすでにイエス様よりずっと前に預言者が

発していました。警告預言はすでに成っていたけど、

怠けたためそうなった、、という事をイエス様は言われていたのです。

 

さて、十人の僕と十ムナの金(おかね)の本当の意味をお話します。世界初です。

 

十人の僕とは北イスラエルの国に居た10部族の事です。

ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族の10部族の事です。

 

与えられていた金(おかね)とはモーセ以来の律法(み言葉)でありそれを守るかどうか、、。

 

同時にそうした信仰心の事でした。

サウル王とダビデ。

 

古代イスラエルは統一王サウルに始まって、

ダビデが王を継ぎそしてその子ソロモンまで統一されて

いましたが、ソロモンの子以降ふたつの国に分裂しました。

 

ソロモン。

 

北イスラエルには10の部族、南ユダ国にはふたつの部族(ユダ族とベンヤミン族)とで別れたのです。

 

サマリアを首都としていた北イスラエルはbc722年に

アッシリアによって滅亡しています。

 

エルサレムを首都としていた南ユダ国もbc586年に新バビロニアによって滅亡した。

でも、紀元前141年から 紀元63年ごろはローマの属国的

ながらハスモン朝が有ってユダヤ人の国としての体裁があった。イエス様が生誕したのはその時期に当たる。

 

聖書で有名なヘロデ王の時代ですね。

 

 

その時代ユダヤは一応の自治権を与えられていたのです。

一方北イスラエルの民は既に離散してどこに居るのか不明の時代で、今でも失われた10部族と言われています。

 

イエス様当時も10部族がどうなっているのか?

解っていなかったのです。

 

失われたもの=失われた10部族です。

 

イエス様が通っていたエリコの地は元は北イスラエルの地です。ザアカイはエリコにいたのですから、北イスラエルの

僅かに残る残党だったようです。

 

北イスラエルが滅んだ後、一部の人はユダに入ってはいました。イエス様が父母に抱かれて神殿に来た時、シメオンとアンナが居ましたね。アンナは北イスラエル系の人だったのです。

それでイエス様はザアカイにも、アブラハムの子だから、

と言ったのですよ。

 

しかも、、「今日、救いがこの家を訪れた。」と言われた。

 

訪れたは、(救いが)始まったという意味です。

ユダのみならず、ザーカイらにも、、。

 

エリコは元々北イスラエルの地、

この地に救いが始まった、、という事をイエス様は

暗におっしゃっていたのです。

 

イエス様はサマリアにも一時拠点をつくってそこから伝道しました。サマリアの女性のお話が聖書に記録されているでしょう?

サマリアは北イスラエルの最後の首都だったのです。

 



ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、

ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ。』」
 
イエス様はこのように話してから、先に立って進み、

エルサレムに上って行かれた。

 

失われたものを捜す事は、完結していますでしょうか?

 

イエス様自身は責任を全うしています。

いますけれど、、。

 

私はまた来ると言って帰天しました。

イエス様は再度来て

何かをするのです。

 

ふたつのこと。

ひとつは前に言いました。

 

ふたつめは、

 

10部族に関係する事でしょう。

 

世界に離散した10の民の塊が

結実したその所へ、行くはずです。

 

最終的に、

神様は人の方から来なくても、自ら探しに来て

人を救われるのです。

 

 

 

 

 

感の良い方はわかると思います。

 

北イスラエルは金の子牛を造って祭りました。

エフライム族の地シロに昔契約の箱が安置された事が

ありました。後々は南ユダのエルサレムにですが、

エフライムは北イスラエルです。

北イスラエルの部族も契約の箱の事を知っていました。

 

さぁ、、牛を祭っている国、契約の箱のような担ぎ物を

所持している国は、、?

 

私のヨセフの記事を読むと解るでしょう。

 

今回はここまでとします。フフ。

 

 

 

 

 

 

 

以下、記事とは無関係の事です。すいません。

ずっと昔、シンガーの中島みゆきさんが

ファイトという曲を発表していました。

 

私、当時興味なかったけれど、長い時間がたったけれど

、最近わかった事がありましたので、

聴いています。

 

ファイトという曲が出来た、経緯(いきさつ)が

有るのです。

 

これを見たらわかります。

曲自体も、とても良いですね。

人の気持ちに寄り添うって大切です。

 

 

中卒のどこが悪い?足りない? 実務で学べば中卒でも経理はできます。 学歴で人を見下げる事はいけません。

 

少し前に書いた私の記事に登場した

自称可愛い系?の女の子も中卒でした。

でも、彼女は懸命に生きていた!