聖書を読んでみましょう。
途中解説が入ります。
ヨハネによる福音書/ 20章 1節~18節
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って、彼らに告げた。
「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」
そこで、ペトロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子のほうが、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあるのを見たが、中には入らなかった。
続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
★
亜麻布はアリマタヤのヨセフが磔刑後、
イエス様に着せた(巻いた)
ものです。イエス様はこの世の真の大祭司だったので
亜麻布を着たのでした。それは祭司の規定通りでした。
レビ記/ 6章 3節
祭司は亜麻布の服を着て、その身に亜麻布の下着を着ける。
そして儀式が終わると亜麻布を脱ぐのが規定だったので
イエス様はそれを脱いで置いていたのです。
祭司規定は以下。
レビ記/ 16章 23節
次に、アロンは会見の幕屋に行き、聖所に入るときに着けた亜麻布の服を脱いで、そこに置き、、、
★
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた。
イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
それから、この弟子たちは家に帰って行った。
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中をのぞくと、
イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が、一人は頭の方に、一人は足の方に座っているのが見えた。
★
天使はガブリエルとミカエルでした。
なぜ
「一人は頭の方に、一人は足の方に座っている(いた)」
意味は、
以下を読むと解ります
出エジプト記/ 25章 18節
そして打ち出し細工で、贖いの座の両端に二つの金の
ケルビムを作りなさい。
出エジプト記/ 25章 19節
一つのケルビムを一方の端に、もう一つのケルビムを他方の端に取り付けなさい。
すなわち、贖いの座の一部として両端にケルビムを取り付けなさい。
ケルビムとは天使を模した像でした。
この像の実体がガブリエルとミカエルだったので、
実体のふたりの天使は像が置かれたと同じように
一人は頭の方に、一人は足の方に座っていたのです。
フフ、、ここまで解ります?
★
(マグダラ)マリアは言った。
「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、
分かりません。」
こう言って後ろを振り向くと、イエス様の立っておられるのが見えた。
しかし、それがイエス様だとは分からなかった。
イエス様は言われた。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」マリアは、園の番人だと思って言った。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります。」
★
「私が、あの方を引き取ります。」は、
鬼気迫る勢いで言ったのだと思います。
マリアの必死さが伝わります。なにが何でも、、という。
これも言っておきます。遺体引き取れるのは基本的に家族か
親族です。マグダラのマリアがそれを知らないはずは無いです。
規則を知っているのに、堂々とイエス様を引き取る、、と言ったわけです。 はい、もうここで、マリアがどんな身分なのか?イエス様との関係が、何だったのか?
間接的ですが、わかる人はわかる、、。
★
イエス様が、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。
「先生」という意味である。
★
イエス様はマリアにだけその時自分を見る事ができる
ようにしたのです。
マリアにだけ、、。
★
イエス様は言われた。「私に触れてはいけない。
まだ父のもとへ上っていないのだから。
★
イエス様は私に触れるな、、と言いました。
なぜでしょうか?
ある牧師はラザロの復活の例を言います、その時の
イエス様とラザロは復活の本質が違うから触るなと注意したなどと解説しています。ほかの牧師の解説を見ましたけれど
ほんとう理由を言っている人はいませんでした。
聖書学者も未だ不明と言っています。
何でしょうね?
皆さまはどう思います?
いいえ、、
勿体ぶってはいません。
では、言いましょう。
これを読むと解ります。
民数記/ 19章 11節
どのような死者の体でも、死んだ者に触れた者は七日間、
汚れる。
イエス様は神様でありながら人でこの世に来ました。
イエス様は聖書に精通したラビでもありました。
神様なのだけど、この世の人にモーセを通して
示した律法を
自ら破る事はなさいません。
ですから、、民数記/ 19章 11節を守るのです。
イエス様は一旦死んだのです。
人として来て、人として死んだ、、。
だから、マリアが穢れないように、私に触れないように
と、言ったのです。
イエス様はこの事だけではなく、律法を全て
守っていましたから、。
もし穢れたら?
民数記/ 19章 12節
その者が三日目と七日目にこの灰の水で身を清めるならば、清くなる。
しかし、もし三日目と七日目に身を清めないならば、
清くならない。
皆さま、解りました?フフフ。
イエス様の優しさだったのです。
★
聖書続き、、。
私のきょうだいたちのところへ行って、こう言いなさい。
『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』と。」
マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、
「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
★
上で堅苦しい規定によりイエス様はマリアに触れるな、と
言ったと私は証しました。。
それは正しい事、、。
だけど、
心情として、、
イエス様の本当の心情としては、、。
規定はあるので守るけれど、、。
心は、、。
イエス様はアロン家の祭司族の血族でした。
レビ族が元のアロン家ですから、音楽はたしなむ。
イエス様の予型だったダビデも音楽が好きでした。
堅琴の名手だったし、、。
イエス様たちは、
最後の晩餐の時、歌ったのです。
磔刑後、マリアに会ったけれど、天に一旦もどる事
になっていました。
名残り惜しいのだけれど、、。
その時、こんな歌がその時代に有ったなら、、
歌ったのかなー。フフ。
これがイエス様の心情です、、。
と、、私は昔から思っています。
曲名は、、このまま、君だけを奪い去りたい、、。
ついでに聴きましょう、名曲です。
★★★★★★★
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★★★★★★★
ここまでたどり着いた方、、
おめでとう!
ここからは、自己責任でお読み下さい。
この聖句の件です。
ヨハネによる福音書/ 20章 16節
イエス様が、「マリア」と言われると、
彼女は振り向いて、
ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。
「先生」という意味である。
この聖句では、なぜだか?
唐突にヘブライ語では、、ラボニ、、その意味は
先生、、となっている、。
前後の聖句と比べて違和感があります。
でしょう?
ここから、私は世界初の事を言います。
この箇所は、変更されたのだと
思います。
元々は、
ヨハネによる福音書/ 20章 16節
イエス様が、「マリア」と言われると、
彼女は振り向いて、
ヘブライ語で、「バアル:בַּעַל」と言った。
「夫」という意味である。
だったと思う。
正確に言えば、婚約者という意味で夫。
でも、聖書記者か?聖書を編纂した者が、
まさかイエス様がマグダラのマリアの
夫になる人だったとは、夢にも思わない。
教理としてもイエス様が結婚するなどは
無い。それは異端の教えとされる。
ヘブライ語で、「バアル:בַּעַל」と言った。
と聖書に書いたら、聖書記者も異端者とされ、
異端審問にかけられて、、死刑、、です。
私がその時代に生まれていたら、私も
死刑、だったでしょう。
この事を気づいてはいたけれど、異端審問にかけられないように、それとなく絵画として残していた
天才画家がいました。
誰でしょうか?
この人です。
解る?
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レオナルド・ダ・ヴィンチです。
彼は最後の晩餐を描いていました。
以下は原画。
以下は後年、模写された絵。
ハッキリ見えますね。
全ての足の部分が解っていた時代に
模写されたのです。
上のオリジナルの絵の中央は、、確かぁ、、
後年に暖炉を置くために
消されたのです。
それで、中央イエス様にむかって左の人物は、
カトリックでは伝統的に弟子のヨハネとされています。
でもね、、ヨハネは男性です。
この絵の人物を観て男性だと思う人は
ほぼいません!
でしょう?皆さま!
ダ・ヴィンチは解っていたのです。
ラストサパーすなわち、最後の晩餐の時、
イエス様の横に居たのは、マグダラのマリア、、
その人だと。
聖書ではマリアだと指定されてはいませんが、
イエス様の愛していた弟子が居たと
記録されています。
聖書もそれとなくは、書いていたのですね。
席に座りその右手側にいるのは、正妻または婚約者と
決まっています。
★
ヨハネによる福音書/ 20章 16節
は、
都合が悪いので変更したのです。
言ってしまいましたので、
私は異端と言われる、、かもしれないです。フフ。
しかし、そうなっても私は構いません。
イエス様もその時代のユダヤ教からは異端者だと
認定されていたのですから、、。
イエス様も、、。
★
真実の愛が大切です。
真実はひとつです。
たとえ、批判されたとしても!
★★★★★★★
真実の愛
★★★★★★★
★★★★★★★