超新未来神学:ロトの物語の補足。

10月にロトの事を掲載していました。

内容は今までの説教者の解釈は

間違いという内容でした。

 

つまり、ロトと二人娘は近親相姦では無いということ。

 

説教などで、当たり前のようにロトと二人の娘は

不埒な関係によって、子どもを儲けたという説は

間違っている、、という記事。まず読んで下さい。

 

 

生まれた子供の名はモアブとベン:アミでした。

モアブは後のモアブ人の祖になります。

モアブ人も割礼を受けていたのです。

モアブ人は広大な領地をもつようになって、後年、

イスラエルと敵対するようになっています。

 

ベン:アミの意味は私の親族の子と言う意味です。

ベン:アミは後のアンモン人の祖となりました。

古代イスラエルと敵対し、異教の神様を拝む悪い民になった、その原因が、元もと近親相姦の罪から発生した民だったからと、こじつけるような理由は間違いです。

 

子が産まれてすぐに悪人になると決めつけてはいけません。

たとえば殺人者から生まれた子供が必ず悪人になりますか?

 

どうなるか?は本人次第です。

前の記事を、

はじめて読んだ方は、驚いたでしょうし、

そんな事は無い、ロトは姦淫の罪がある、

などと思った方も居たでしょう。

 

しかし、前記事にも記しましたが、

新約聖書ではロトは正しい人と書いていますから、

姦淫、近親相姦では無いのです。

ペトロの手紙二/ 2章 7節
しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。

この聖句ではロトを正しい人、、つまり義人だと証しています。この聖句が有りながらロトを罪を犯した人だと公言する

者は聖書を否定したも同じで、逆に罪人だと断罪されるかもしれない、、です。

ロトが正しい人(義人)という根拠聖句は

ペトロの手紙二/ 2章 7節の他にもあります。

旧約聖書続編:知恵の書/ 10章 6節
神を信じない人々が滅ぼされたとき、/知恵はあの義人を救い出し、/五つの町に降りかかる火を逃れさせた。

旧約聖書続編:知恵の書/ 19章 17節
この者たちは目をくらまされた。あの義人の家の戸口で人々に起こったように。
彼らは濃い闇に覆われ、/めいめい自分の家の戸口を探したのである。

 

あの義人とはロトを指しています。

ロトが罪人ではなかった事は、

前の私の記事をよくお読みになったら、解ると思います。

 

しかしながら、

まだ、どうなのか?と

思いめぐらす人もいます。フフフ

 

ロトのお話で登場人物は?

ロト、ロトの妻、二人の娘、み使い=天使、

ソドムの男たち(悪霊)、ロトの婿たち、嫁いだ娘たち。

聖書には記されなかったけれど、

二人の娘とは、妻の連れ子だったのです。

理由は前の記事書いています。

 

母親が結婚したら、母の夫は娘にとっては

(義)父になります。

ここで、聖句を読みます。洞窟に住み着いた後の事です。

創世記/ 19章 31節~38節
姉は妹に言った。「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。

さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」

娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。

あくる日、姉は妹に言った。「わたしは夕べ父と寝ました。今晩も父にぶどう酒を飲ませて、あなたが行って父と床を共にし、父から子種をいただきましょう。」

娘たちはその夜もまた、父親にぶどう酒を飲ませ、妹が父親のところへ行って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、・・。


やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。

妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である。

 

読みました?

 

子供が生まれています。後のユダヤでは生まれた子には慣例で8日目に名前を付けます。割礼も8日めです。

 

名付けは、通常なら家長か、実の父親、

それができないなら、母親、、それができないなら

親族がつけます。

 

それ以外もあります。

神様が名をつける事があります。

 

イエス様や洗礼者ヨハネがその例です。

 

さて、ロトの娘が産んだ子供に名をつけたのは

聖書の表面上、娘たちでした。

 

長女の子はモアブ、下の娘の子はベン:アミでした。

 

ロトが名を付けるはずではなかったのか?

ロトが父なのだから、、。

 

不思議に思う人もいるでしょう。

 

ここで、近親相姦ではないという事の補足します。

 

前の記事にも一部書いていましたけど、

言わなかった事があります。

 

専門的な事ですけど、、。

 

聖句の「父」という語句は、ヘブライ語の原語では、

英語訳のfatherという意味だけではなく、

家長とか、支族長とか遠い関係の父のような者

という意味があります。

 

それから、二人の娘という語句は、

英語訳では、two daughtersですが、

原語では直の、つまり血のつながった娘という

意味の他、比喩的にも使われるし、他に広い意味での娘という意味があります。

族長から派生した支族の女の子を広い意味で娘とも

言います。

家長の孫でも家長から言えば広い意味で娘と言ったりします。

 

ロトと二人の娘も同じ事です。

だからこそ、ペトロの手紙二/ 2章 7節で

ロトは正しい人と証言されています。

 

まぁ、ここまでで

ロトは近親相姦はしていないとだいたい、解るでしょう。

 

次は、ロトでは無く。娘たちが子供に名前のつけた事が

問題?疑問?になる、、。

 

上でも言いましたが、神様が名を付ける事はあります。

 

イエス様やヨハネの場合といいますか、

その場面では、必ず必要な登場者がいます。

 

イエス様の時も、ヨハネの時も、

み使い=天使が出現していました。

 

それから、、状況的に子供を産める状況では無い

女性がいる(いた)事。

アブラハムと妻サラの時も同様です。

でも、神様の関与があり、

サラはイサクを産みました。

 

でも、、。

イエス様の母マリアは妊娠しているけど、自覚が無い

時がありました、。サラもその夫アブラハムも子が産まれる

自覚が無かった時がありました。ヨハネの母エリザベツも

自覚がなかった時がありました。

 

 

前記事で言いましたので、ここでも言います

義理の娘ふたりと、関係を結んだ時、

葡萄酒を飲んでいて、自覚がなかった、、。

 

それからぁ、、。

 

ここで私は言いましょうか?。

 

イエス様もヨハネもイサクも神様が

名前をつけたのでしたね。

 

さぁ、、どうですか?

 

ロトの二人の義理の娘の子供たちの

名前をつけた、本当の存在は?

 

イエス様の母マリアも義父ヨセフも、み使いの指示に

よって、イエスと名をつけました。

 

ヨハネも、み使いの指示によってザカリアが

書き板に名はヨハネと書いて名がつけられました。

 

ユダヤ人の慣例では、子の名前は先祖の名前をつけます。

その支族とか祖父とか、高名な親族の名とかです。

 

でも、そうじゃない名を付けた場合は、

神様が関与した場合がある。

義りの娘たちがつけた名、、

モアブとかベン・アミの名はロトの先祖には

いません。

 

さぁー、、

 

もう解りましたね。

 

ロトの物語で聖書には記されていなかったけれど、

 

実質、命名したのは、

 

神様でした!

 

他の事で言うなら、以下を読んでください。

 

モアブについて、。

マタイによる福音書/ 20章 23節
イエス様は言われた。

「確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる。
しかし、私の右と左に座ることは、私の決めることではない。それは、私の父によって定められた人々に許されるのだ。」

ヨハネによる福音書/ 6章 57節
生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。

 

モアブという意味は「父によって・・」という意味ですが、

上記の聖句にある、父によっての父とは?

神様の事でした。

 

弟のベン・アミはアンモンの事ですが、

アンモンとは私の民という意味です。

 

出エジプト記/ 3章 7節
主は言われた。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った。

出エジプト記/ 3章 8節
それで、私は降って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、そしてエブス人の住む所に導き上る。

 

この私の民の私とは?神様の事です、。

 

 

 

仮にロトと二人の娘が近親相姦の罪を犯していたら?

ロトも娘も罪人となるのですから、天罰が下ります。

その時は、神様から罪の糾弾の言葉が有ります。

しかし、何も聖書には書かれていない。

 

ノアの時のハムの子への呪いの言葉に相当する

記述はロトの時はありませんでした。

 

それこそ、無罪、近親相姦では無いという証拠です。

 

懸命にロトの家の子孫を残そうと、知恵も使って

行動した二人の義理の娘たちの事。

涙ぐましい努力ですよ、。

普通じゃぁできません。

 

 

 

現代でも、ロトと二人の(義りの)娘を

罪あり!と罵っている説教者は、ロトと娘から、

糾弾されるかもしれない。

いや、その前にサタンが説教者を訴えるかもしれないです。

ですから、今の内にロトと娘さんに

祈りの中で謝った方がいいです。もちろん神様にも、、。

 

彼らは今も生きているのだから、、。

 

補足、以上。

 

 

 

 

 

 

 

謝ったら、仲直り!?

楽しく、

一緒にダンスもできます。フフ、、ハハハ、。

 

 

 

 

旧約聖書続編について。

旧約聖書続編は,一世紀末の当初ユダヤ教聖書の正典

を定めるときに排除され,聖書には含まれなかった。

しかし,元々はbc三世紀ないしは二世紀からbc一世紀までに成立していたユダヤ教の宗教的文書群であった。

後年の評価は紀元前後のユダヤ教の多様性を伝える

素晴らしい文書群という事。

「知恵の書」と「マカバイ記 2」を除く他の諸書は,

まずヘブライ語またはアラム語で記され,

パレスティナ以外の地に住んでこれらの言語を解しない

ユダヤ人のために旧約の他の書と同様に,
ギリシア語に訳されたものである。

 

初期のキリスト教では,ギリシア語がいち早く共通語となり,キリスト者は離散したユダヤ人たちが用いた

「ギリシア語訳旧約聖書(七十人訳聖書)」
と共に先の文書群も受け継いだ。

「七十人訳聖書」や「ラテン語訳聖書(ウルガタ)」などに含まれていたこれらの宗教的文書は,
主にキリスト教の中で読まれてきた。
そして、四世紀ごろから
キリスト教内でこの文書について,

二つの見解が見られるようになる。

これは旧約の他の書に劣るとする見方と,同等とする

見方である。

今日,カトリック教会ではこれに旧約と同等の価値が付され,「第二正典」と呼ばれるようになった。

ただし,「エズラ記(ギリシア語)」,

「エズラ記(ラテン語)」,「マナセの祈り」は,
カトリック教会もまた「アポクリファ:外典」

と呼んでいる。

プロテスタント教会では,その価値を認める教会もあれば,全く認めない教会もあり,そこでは「アポクリファ」あるいは「外典」と呼ばれる。

十九世紀までは,一般に旧約続編も翻訳して出版されていて、カトリックとギリシア正教では旧約の他の書の間に,

十六世紀初めの若干のカトリック聖書と
多くのプロテスタント聖書では,旧約と新約との中間に,まとめて置かれていた。



それは、1987年に教皇庁キリスト教一致推進秘書局と聖書協会世界連盟が共同で改訂版を発表した、
「聖書翻訳におけるプロテスタントとカトリックの共同作業のための指針」が定めているところとも一致する。

「トビト記」と「ユディト記」は,教訓を交えつつ,

困難な状況の中で神を信頼し,
その教えにいかに忠実に生きるかを示した民間説話である。

 

ギリシア語本文による「エステル記」は,
ヘブライ語の「エステル記」に,モルデカイやエステルの

祈りなど,多少の追加をしたものがある。

「マカバイ記」の二巻はそれぞれ独立の書であるが,

いずれも紀元前二世紀,
パレスティナのユダヤ人に対する宗教的な迫害を語る

歴史書である。

「知恵の書」と「シラ書」は,知恵文学に属し,

知恵の追求を根本に置いている。



「バルク書」と「エレミヤの手紙」は,預言書に類似した

文書で,前者は罪の告白,知恵についての思索
,エルサレムの慰めから成っている。エレミヤの手紙

は偶像崇拝に対する警告である。

「ダニエル書補遺」は「七十人訳聖書」に収められており,「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」など,
ダニエルを中心人物とする三つの教訓的短編が含まれる。

「エズラ記(ギリシア語)」「エズラ記(ラテン語)」

「マナセの祈り」は,「エズラ記(ラテン語)」を除いて,
キリスト教の聖書のギリシア語写本によって伝えられ,

いずれもカトリック教会では正典の中に数えられていない。

「第三エズラ記」「第四エズラ記」「マナセの祈り」の

名称でラテン語聖書の付録として出版されていたが,
聖公会の聖書ではアポクリファに加えられている。

「エズラ記(ギリシア語)」の主題は,ヨシヤ,ゼルバベル,エズラによる礼拝の改革である。

「マナセの祈り」は短い文書だが,神に罪を告白し,

赦しを乞い求める美しい祈りの言葉が綴られている。

 

参照は聖書協会