神様はなぜアブラハムを試みたのか。と言う疑問。


 創世記22章1節「神様はアブラハムを試みて彼に言われた」の聖句箇所。
 
 神様はアブラハムを試みて、息子のイサクを捧げよと命じられました。 詩篇に「神は心の秘密を知っておられる」(詩篇44:22)とありますように、 神様は全能で、全てをご存知です。その神様が、アブラハムがどのような行動をするのか分からなかったのでしょうか。 もし、わかっていたなら、この試みの目的は何だったのでしょうか。 神様はなぜアブラハムを試みる必要があったのでしょうか。
この問いに明確に答えているのは、ナフマニデスという名前で知られる、 ラビ・モシェ・ベン・ナフマンという人です。ナフマンは13世紀のスペインで活躍した
聖書注解者で、ユダヤ神秘思想にも精通していたラビでした。
《ユダヤ教注解のひとつ。
 ナフマンの注解は潜在力を目覚まさせるためと言う。
 これが試みというものである。人間の行いは、すべてその人の手中にある。欲するなら、行うし、 欲しないならば、行わない。試みを受ける人間から見れば、「試み」と思えるかもしれない。
 しかし、試みる御方の目的は、人間の中に眠っている潜在力を目覚ましめ、行動させることである。 ”よき心”の報酬ではなく、”よき行い”の報酬を得さしめるためである。
 「主は義人を試みる」ということを知るべきである。 神様はその義人が御心を喜んで行う人間であることを知っているからこそ、 「試み」に遭わせるのである。従わない罪人は試みることはない。
 ナフマンの注解によれば、人間は「試み」によって成長し、強められ、 内側に隠れている潜在力が引き出される。そして「行動の人」としてさらに成長していくのだというのです。》

 

この解説に私は同意しない。ラビはこの疑問に聖書の一部分の文章でしか解読していない。 聖書にはつながりがあり神様の全体の摂理を理解していなくてはならない。
アブラハムのイサク献祭は人の罪の購いのためである。
最初の儀式はアベルとカインであった。しかし彼らは残念な事にカインのアベル殺しで
失敗した。失敗のままでは人を救う事ができないため、 神様に選ばれた後の人が再度神様に購いの儀式を行う。それは神様の救いのための原則である。
聖書はこのような儀式を綿々と書き綴っている。

 

カインとアベルの儀式はアダムとエバの罪の購いのための儀式だったのだ。
しかしカイン失敗、ノア失敗、それで次にアブラハムに神様は成功する希望を託した。
最初の儀式は動物の燔祭だった、アブラハムはこの儀式で失敗した。 普通なら次の10代後の世代に儀式は受け継がれるはずだったが、 神様は再びアブラハムとイサクの親子で罪の購いを命じた。
アダムからノアまで10代、ノアからアブラハムまでも10代。
ノアはそれまでの罪の購いのための人だったが失敗、それでアブラハムはノアの購う10代分までも あがなわなければいけなくなった、ここでまた失敗のままで終れば次は
人にはとても罪を購いきれなくなる。
動物の燔祭失敗後、それでイサク燔祭を神様は命じた。
最初の小さな献祭で失敗すれば、それを大きな献祭であがなわなければならない。
それで、小さな失敗を無かったものとする。

 

全てはアダムから始まったの罪のあがないのためだったのだ。
イサク燔祭の詳細は既に記事にしているので割愛します。そちらをお読みください。
今どこに書いていたか記事が多すぎて案内できませんので、
わかり次第、ここにリンクしてお知らせします。
ご自分で見つけても良いですが、、。

 

加筆、神様が、アブラハムがどのような行動をするのか分からなかったのか?
の答えは、アダムとエバの時からずっと人には自由意志が与えられている。
それも神様と人の似姿のひとつ。ですから神様は人が失敗するか成功するかは、
人自身のもんだいとなる。さらに、神様は人が救われ幸せになる事を望んでいるので
失敗することを予測できても最初からそれをしない。

 

失礼ながら、ラビはこんな上記の事もわからなかった、 先に記したように聖書全体に脈々と流れている神様の愛による救いの摂理。 神様がどのようなことを選んだ人に対して
指示し儀式をさせ人を救おうとされてきたかを彼らは全く理解していなかった。
だから、イエス様が2000年前に来臨した時、救い主を待ち焦がれていたにも関わらず
いつ、どこに誕生したのかが彼らには、わからなかったのだ。
しかも目の前にイエス様を目撃したにも関わらずメシアだともわからなかった。