新未来神学7の改訂版。


「我々にかたどり、我々に似せて・・・」

(創世記/ 1章 26節)我々とは?



聖書を読む人が、まず最初につまずくか?

疑問に思う聖句がここです。



創世記/ 1章 26節

神様は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 



クリスチャンは、キリスト教の神様は唯一の神様であると信じているし、そのように、教えられているのに、どうして聖書で神様自身が我々との複数形の聖句があるのは、、、なぜ?ということです。



いまさら感のある人もいるでしょう?しかし、、

長年信仰している人でも、未解決のまま過ごしている方も多いでしょう。 いかがでしょうか?





それは、当然です、一応の伝統的解釈はなされているのですが、確定し解決済み、ということでは無いからです。



今回はこの神様の複数形についてです。



キリスト教解釈と同時に、ユダヤ教での解釈も見てみましょう。

キリスト教もユダヤ教も旧約聖書を聖典と位置付けているからです。

さて、

しばしば議論になるこの部分。神様はおひとりであるのに

聖句で我々と複数形での表現がある。



ユダヤ教注解のひとつに『我々とは「神さま」と「地」のこと』

がある。



 神様は天地創造の第1日、一人で無から有を創造された。

そして創造された要素から、さらに創造を続けられ被造物が

できた。

 神様は水に生き物を生み出す力を与えられた。そして、「水は生き物の群れが、群がるようになれ」(創世記1章20節)と言われた。

 獣の創造では、「地は生き物を出せ」(創世記1章24節)と

言われた。

 しかし、人間の創造では、「我々は創造しよう」と言われた。この「我々」とは、「私」と「地」のことである。

 「主なる神は土のちりで人を造り」と書かれているように、地は獣や動物を造ったときのように人間の肉体を造り、「命の息をその鼻に吹き入れられた」とあるように、神は命の息(霊)を自らの口で与えられたのだ。》という主張があります。



この説は、進化論につながる考えにも成り得るので私は同意しません。

地の性質や形に似せて人が創られたのではなく、人はあくまで型の元である神様に似せられて創られているのでこの説は間違っています。



次に 旧約聖書・アラム語訳「タルグム・ヨナタン」による。 神様は天地創造の2日目に造られた奉仕の天使たちに言われた、「我々は、我々のかたちに、我々に似せて人を造ろう」、と言う主張。







次に、ハシディズム派開祖 バアル・シェム・トヴ( 敬虔主義運動の創始者)の主張。「我々のかたちに、我々に似せて」は天使たちに向けて語られたのではなく、人間自身に向けられたのである。創造主は人間に向かって「さあ、私とあなたが協力して人間を造ろう」と言われたのである。

 もし人間が人間であろうと欲しなければ、神様も人間を助けることができない。 



これは、矛盾がある、神様が我々と言われたのは、人の創造の前なので、人がまだ存在する前に人に呼びかける事はできない。ただ、人が自身で努力し自分を高め神様の至高の性質に少しでも近づこうとの教えは人の存在以降なら哲学的表現で良いとおもう。



次に現代注解の中のひとつ。

 神様の独白との解釈で神様に誰か相談役や協力者がいたのではなく、神様がお一人で発せられた言葉である。との説。



 他に畏敬の複数形ということがある。

 聖書ヘブライ語では神様のような偉大なお方は単数で表現するのではなく、その偉大さを表すために複数形を用いる。数が多いという意味の複数ではなく、偉大であるという意味の複数。ヘブライ語文法には偉大形というものはないので、複数形で代用した。これを「畏敬の複数形」という説。この説は我々の意味が解らないので、無理やりにこじつけた説明でしょう。

解らないのに解ったふりをするとこんな説明がでてくる。



 更に、、「人間の創造」という神様にとって最大の関心事をこれから行おうとするに当たって、神様がいかに関心を持っていたか、心を込めていたか、集中しておられたかを示すために、自問自答の様子を丁寧に表現した。と言う説、。



これは、、神様がこのような表現で自身を表すこともあると思う。。

私は複数形の質問で、時々この説明をする事がある。ここでそのように解説をした人へお詫びをしておく。

議論のための議論をしてこられたと思う人にこれに似た解説を、言った。

議論が長くなる事と愛の神様を知でしか思えない人にはこれで十分だと思っているからです。

真剣に神様を求めだしたら言わなくても理解してくれると希望しながら、、。



次、、これも現代注解の中のひとつ。

神様は唯一の存在であるが、その周りには天使とも言うべき神的存在がおられて群れをなしていた。神様が天使と相談されたから、「我々」になっている。

 人間が神の似姿であることを言う余り、あまりにも直接神様に結び付けてしまうことを避けるために、クッションとして「われわれ」という表現を入れている。

神様は複数性の中に身を隠しておられるとの説。



これは私の本来の解説と良く似てはいる。

だが、神様は天使に相談はしていない。全ての創造の完成した姿は神様の中に、創造する前から存在していたからである。天使に相談する必要は何もなく、指示するだけで事足りる。



もし相談したとなると天使の意思が加わった事になり天使が創造のみ技に加担した事となり、創造主が複数となる。それは二元論に繋がるし、、またはそれ以上となる。



キリスト教界での伝統的で多数派?の解釈は、

神様自身が三位一体の存在なので神様自身で自分を指して我々だと言った、、という説です。



その根拠は、この聖句での神は複数形で表す神だから三位一体を暗に示唆している、だから我々とは三位一体の神自身を指すということ。さらには人は神様に似せられて造られている、人は自問自答をのような自己対話をしますから似姿の元になった神様も自己対話するだろうから、三位一体の神様を自身で我々だと表現した。



簡単に言いますと、使われた言語が複数形だし、

神様の性質が父・子・聖霊の三位があるので

唯一だけど、複数形で我々と言った、、という事です。



私はそれほど強くはこの主張に反対はしません、、

それほどは、、です。



エローヒムという語句に注目していた過去の学者、、。

三位一体と合わせて理解しようとしたのは想像にかたくない、、。



自己対話、、は良い思いつきだとは思います。



でも、しかし、、私は言う、ここの聖句に限っては、

我々とは神様ご自身と天使達を現したのです。

もちろん天使が自分の意志と自分の考えで、直に創造のみ業を行ってはいません、神様の意志によって指示され、天使たちはみ業を手伝ったということはありえます。



天使は神様を賛美したり、手助けするために創造されています。人が神様の子であるなら天使は神様の子に従う、、同じように、、です。



さて、ここで もう一度その問題の聖句を読みますよ。



創世記/ 1章 26節

神様は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・・」



読みましたか? 気づいたでしょうか??



答えのヒントは簡単な事なのでした!!



短い聖句に書いていますよ、、



たぶん当たり前すぎて、、誰も気づかない、。



神様は言った、、と書かれています。



独り言ではなく、、

声を発して言ったのです!



自問自答ではなく、自己対話でも無く、、言った、と聖書が証言しています。

(それに誰も気づかないけれど、、。)



もう一度言います、神様は内面で思考したのではなく、声を発して言ったのです!

これが、重要なことです。



そして、



言葉が外に発されたのだから



それには対象がある



ということです。





ただし、人間がこの世で誰かに言葉を使い声を出すのと同じ事ではありません、

この聖句は神様の世界で有った事を人が理解できるようにした表現です。



さて、、

自己対話であるなら、声を発する必要がありません。

声を発するという事は、、



み言葉を聞く実在の対象が存在しているということです。



であるので、この場合、神様ご自身以外の(被造世界創造過程での)存在は天使たちしかいません。



だから、この聖句の「我々」とは神様と天使たちを意味するのでした。





唯一の存在である神様が自身で自身の唯一性を否定するような、またさらには人が迷いつまずくような事を言うはずがないのです。



難しく考えないで、単純に考えれば良いです、

我々だから、神様と何かの存在あって合わせた表現なのだと、素直に考えればいいのです。

なまじ、三位一体などの知識があるから、迷うのですね。 



他に、、それから私が強くは既存の伝統的解釈をあえて否定しない理由を書いておきます。



この聖句の場合は自己対話ではなかったのですけれど、創造前、人を含めた被造世界を創る前、、言うならば設計図のようなものを作る時 神様は愛の衝動からでしたが神様の内で我々つまり父と子と聖霊のような性質を持った人という存在を創造しようと自己対話のような思考を行なったからです。



設計図が完成して、、それは瞬時に完成でしたが、

天使を造り、、そして人へと創造が移行進展していきました。







上記で様々なことから、私は神様の我々という言葉の意味を天使を含めた事であったと結論しました。



上記のような、むずかしい、、事を言わなくても

簡単に結論できることがあります。



聖書聖句が言っています。



その決定的な聖句を書いておきます。



それは、



創世記/ 3章 22節

主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」 

です。



この聖句の前にアダムとエバは神様の戒めを破ったのでした。 つまり堕落。



この聖句を言い換えますと、

罪人となった人は我々の一人のように善悪を知る者となった、という事です。



つまり善悪を知る者イコール堕落した存在、と アダムとエバは同じく罪ある存在。



創造の神様は悪ではありません、絶対善の存在ですから、そこに神様では無い存在を示唆しています。



さて、アダムとエバが堕落した場面で人以外で

登場した者は、誰?または何?でしょうか。



それは蛇でした、、蛇は堕落した元天使の事で、

サタンです。

サタンは元は天使だったのですね。





でありますから、このような類似的表現から、、



創世記/ 1章 26節

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・・・」 の「我々」も、天使を含めた表現だったことが解るのです。

 ただし、皆さまが間違えないように

言いますけど、

神様の創造上、神様のみに似せて人を造ったのです。

天使を含めて、神様と天使に似せて人を創造したのではありません。
 
神様の創造の設計では、神様に似せて人を造り、人に似せて
被造物と被造世界を創ったのです、。
その被造物には天使も含まれます。
 
設計では、神様→人→天使→万物、、。
→は似せてという意味です。
 
ですけど、 眼に観えてこの世に出現する順番は
逆になりました。
 
それは、家屋を建てる事ににています。
 
完成図があり、それを造るまではその材料が先に無いと
建物は出来ません。
 
建材とか、他の部品が先に有るのです。
 
最後に完成される人は出現は最後になるのですからね。
 
関連していうと、進化論は大間違いです。
 
神様の中に先に完成形が有るのです。
                            以上。



みなさん、

わかりましたか?



ついでに書いておきます。



聖書は、

我々の一人のように、善悪を知る者となった。と書いています、それは罪に落ちたものを善悪を知る者と示唆したのです。

更には、それはサタンを意味したのでありますから、、





創世記/ 2章 9節

・・・・また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。 

の「善悪の知識の木」というのは、

サタンの事であったことが理解できます。



これも一つの謎だったのですが、今回これで、、

みなさんは、わかったでしょう。



あとひとつ、。



創世記、、は 人類始祖の時代のことからが始まりでした。

命の木と善悪の木がありました。



命の木はイエス様のこと、で

善悪の木はサタンのことでした、



人類始祖の時代から神様はイエス様は良いけれど、

サタンはいけない、、と最初から警告していたのでした。
 

 

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