今回もbarso様からコメント(反論)が
ありましたので、応答します。
元になった記事は以下。
barso様、コメントありがとうございます。
旧年中は色々とお世話になりました。
今年もよろしくお願いいたします。
おそらくコメントが来ると思っていました。
逆に来ないならちょっと寂しいかな、、。
それでは応答を始めます。
その前に、お断りしておきます。
貴方の今回の主張コメントは、、私もいつの頃までだったかな、同じ思考をしていました。
カナの婚礼で婦人よと言った対象は実母のマリアだとずっと思っていたわけです。
★、、。
barso様)あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
新年からまたユニークな解釈ですね。よく思いつくものです。こういう"想像"論も面白いものです。
私)こちらこそよろしくお願いします。
barso様)確かに、この解釈なら「婦人よ」の伝統的解釈のおかしさがきれいに解けます。
私)はい、そうですね。私がマルタが対象だと気づいたのは、、いや、もしかしてマルタかもしれない
と思ったのは、マルタがザカリアとの間にべタニアのマリアを産んだと気づいたからです。
それに気づくまでは、伝統的解釈に同意していました。
barso様)葡萄酒がなくなったことをイエスに聞いたのは、イエスが花婿であったからという推理もリーズナブルです。
私)はい、。記事にも書きましたが、酒食を用意するのは花婿ですので、イエス様に葡萄酒を出してと言われたのだから
花婿はイエス様だった、、で確定していると確信しています。
barso様)では、「それはそれと致しまして」、期待に応えて"疑問"を述べさせていただきますよ。
①「私の時はまだ来ていません」の「私の時」とは、マグマリアとの結婚の意ということですか?
そうなら「婚宴はただの宴会に変わった」ので、関係者はみな、
「わざわざ時間を作って贈り物を持ってやってきたのになんだこれは」と
思うのではないか?という疑問が自動的に生じます。「愛」どころではありません。
私)はい、。記事に書いていますが、婚礼を計画したのはマルタですので、イエス様に責任はありません。
愛については、贈り物云々とは無関係です。愛は物ではありません。
barso様)②ヨハネ福音書では、メシアの栄光の時に関連する「時」についての独特の言い回しが
七(完全数)回あると言われています。
1:ヨハネ2:4 イエスが最初のメシア奇跡を現したとき、母マリアに対して
「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません」
2:ヨハネ7:6, 8 仮庵の祭りの時、兄弟たちが「公に知られようとしながら、
ひそかに行動するような人はいない。自分を世にはっきり示しなさい」と言ったときに、
「私の時はまだ来ていない」「私の時はまだ満ちていない」
3:ヨハネ7:30 イエスが群衆に自分がメシアだと示唆したが、
誰も手をかける者はなかった。なぜなら「イエスの時がまだ来ていなかったからである」
4:ヨハネ8:20 イエスが神のことを父だと話したが、
「だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」
5:ヨハネ12:23 ,24 アンデレとフィリポに対して、
「人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。一粒の麦は・・・多くの実を結ぶ。」
6:13:1 「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」
7:17:1 「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。』」
このように最初は「その時は来てない」だったのが、
「時が来た」という表現に変わっていき。最後は刑柱上の言葉になり、大団円(?)となります。
この「時(ホーラ)」はヨハネ福音書の重要な神学的テーマで、
イエスの十字架と復活による栄光の時を指していたと一般には解釈されています。
私)はい、。貴方が主張した上記の時はそのままの解釈で良いです。それを私は
否定はしていません。ただし違うのがカナの婚礼の場面の私の時の事です。
他の時がみんな十字架の時を言っているからと言ってカナの婚礼の場面で
イエス様の言われた、私の時が同じ意味だと解釈するのは、無理があります。
と言いますか、、伝統的神学ではイエス様が結婚する事など論外なので
何でもかんでも、同じ解釈を無理に持って来ていると私は思っています。
barso様)③ヨハネ福音書では「しるし」という言葉は「奇跡」という意味で多く使われています。
カナ以外には、
・2:23 多くの人々がイエスの行われた「しるし」を見て信じた。
・3:2 ニコデモが「あなたが神のもとから来られた教師であることは、
あなたのなさる『しるし』によってわかります」と語った。
・4:48 イエスが「あなたがたは、しるしと不思議を見なければ、決して信じない」と言った。
この他、4:54、6:2,14,26,30 、7:31、9:16、11:47、12:18、12:37、
2:30にも「しるし=奇跡」として使われています。
なので、カナでの水→葡萄酒変換が「最初のしるし(奇跡)」だと書いている言葉は、
「聖句」だとか「聖文」「聖書」だとは言えなくなります。
私)はい。聖書でのしるしは、通常、奇跡を指します。
私も長い間、葡萄酒の奇跡を信じていました。記事はイエス様を不信する事ではなく、
実際を思い描いたのです。一般的な普通の慣習で婚姻では花婿が葡萄酒などを
準備するのが当たり前だからです。聖書がそれを奇跡だと記した事には
疑問があります。
聖書記者の立場ではイエス様が婚姻する事など夢にも思ってなかったでしょうから。
それに1000年続くキリスト教 神学ではアウトですから、、。
しかし、私は言いたいです。普通にものを考える事は大切な事です。
何でもかんでも奇跡、奇跡と奇跡偏重になってしまった感があります、。
特にカトリック、、。カトリックは奇跡を捏造していたりします。
私はその動画を観た事があります、、。
カトリックで祭壇の前の上に置かれた皿が宙に浮く奇跡?動画です。
私は見てすぐに笑いました。
barso様)④ヨハネ19章26節(十字架上の場面)では「婦人よ」は、
聖母と言われるマリアに対して言われています。
「イエスは母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に言われた。
『婦人よ、ご覧なさい。あなたの息子です』」。
私)はい。ヨハネ19章26節ギリシャ語で γυναιグーナイ 女性よ、ですね。
私も、その聖句は何の疑問も無く実母マリアだと思っていました。
でも後年、少し、疑念を覚えました。
ヨハネ19章26節の前の聖句、
ヨハネによる福音書/ 19章 25節を読みましょう。
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
この母の姉妹というのは、誰でしょうか?
この母が聖母マリアなら?、マリアには私の記事では姉妹はいましたが、
聖書上、明らかにはされてはいません。
通説ではヨセフの兄弟クロパ(クレオパ)の妻マリアであり、それが義理の姉妹という解釈です、。クロパが実母マリアの親族だから、、とか、、。私は、なんだかなーと思ってしまいます。
そうすると、聖書は義理の姉妹の義理を省略して単に姉妹と書いた事になります。
私の記事が明らかにした事、、では、
実母マリアの実の姉妹はエリザベトとヨセフの先妻がいました。三姉妹です。
義理の姉妹というなら、べタニアのマルタがそうです。二人の夫は秘密だったけど
祭司ザカリアですので、、。
さて、十字架での聖句。
ヨハネによる福音書/ 19章 25節
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
その母と母の姉妹という書き方と言いますか、訳し方といいますか、、
ちょっと変ではないでしょうか。
「その」の対象が不明確です。わざと不明確な訳にした疑いもあります、。
イエス様の母というのなら、「その」の語句は必要無いです。
わたしならこう訳します。
イエス様の十字架のそばには、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが居て、その母と母の姉妹も立っていた。
こう訳すと、その、という対象はクロパの妻マリアまたはマグダラのマリアになります。
マグダラのマリアの直後が、その母なので、「その」の対象はマグダラのマリアと見るのが筋というものです。
聖書ではこの場面にあれほど
親しかったマルタが言及されていません。そこに居ないのは
おかしいと思いませんか?
絶対にマルタも居たはずです。
でも聖書はそれを明確には記録しなかった。
隠さなければならない事情が有ったからです。
そうであるならば、、、マグダラのマリア=べタニアのマリアの秘密の母マルタも、そこに居て、イエス様がマルタに
婦人よと言ったと言えなくもないです。
barso様)この場面にいたのは、「25 母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア」で、
この「母」とは聖母マリアのことです。
私)はい、上の応答に書いたように、マルタの可能性があります。
再度言っておきますが、以前は私もあなたと同様、イエス様の実母のマリアだったと
思っていました。今現在、世界中の誰もが、ここは 聖母マリアだと思っています。
しかし、
私だけが、違う解釈のようです。私的には、辛いことです(少しだけ・・)。
barso様)そして、そのそばにいる「愛する弟子」とはマグマリアであり、
ベタマリアなら、彼女がこのときから聖母マリアの娘になった(ことが明言されて公になった)ということですか?
私)はい、、、ん? ちょっと質問の意味がわかりません、、。
が、自分なりに、あなたの質問の意図を汲んで話します。
べタニアのマリアはザカリアの娘ですしマルタの娘です。聖母マリアから言えば、マルタと同じ夫を持っていたので
べタニアのマリアは義理の娘となります。
つまり、その時まではべタニアのマリアとイエス様は義理の兄妹だった事が秘密だったけれど、
イエス様はここで義理の娘だと証言したことになります。
実母マリアを引き取って面倒をみたのは使徒ヨハネとされています。が
聖書では明確にヨハネとは書いていません。
それは解釈上の想像上の推察です。それが伝統的解釈になっているので誰もがそれを
信じています。私も昔はそうだった、。
べタニアのマルタがマリアの母とか、ザカリアがイエス様の実の父とか、
イエス様がマグダラのマリアと婚約してたとか、、を
知っていたら、そうした解釈はしなかったと思います。
★
まぁ、カナの婚礼では、婦人よの対象が
イエス様の実母のマリアかマルタかは
大した問題ではありません。
重大な事は、婚礼の花婿と花嫁が
誰だったかです。
記事にしましたが、マルタが仕組んだ婚姻の儀式だったのです。
それで花婿と花嫁がイエス様とべタニアのマリア=マグダラのマリアだった事に気づく事が大切な事です。
結局は婚礼はなされてはいませんけど。
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まだまだ不十分な応答でしょうが、今回はここまでと致します。
barso様、本当にありがとうございました。
ご質問のつづきがあれば、どうぞえんりょうなくコメントをして下さい。反論であっても、コメントがあれば
私も思考が深まります、、。
★
記事とは無関係ですが、
シルク・ドゥ・ソレイユ。
わたしはフラフープの演技が好きでした。
演技者はElena Levさんで或る意味一世を風靡しました。
神業です。登場時点から最後まで美しい。
動画では1分過ぎから彼女が画面左端から登場します。
この頃、エレェナさんはフープでは世界一だったと
思います。





