このブログに書いた
「私のために全てある」
この事が腑に落ちると
今までの自分を違う視点から見れる!
自分にとって良い事が起きた時に
「やった〜、嬉しい、ラッキー」
って感情になる
自分にとって悪い事が起きた時に
「え〜、最悪、なんで!?」
って感情になる
こうしてほしかった、こんなはずじゃなかった、私ってなんでダメなんだろう、、、
自分も周りも否定して悲しい、寂しい、怒り
そこから自分を認めて欲しくて承認欲求
それが普通で当たり前だった
だけど
「私のために全てある」は
良い事も悪い事もなく
起きた事は全て自分のためにある
そこから見ると
例えば、、
人に対して
「え?なんで、こんな風に言ってくるの?悲しい、良い人だと思っていたのに」
ではなく
自分が、その人を勝手に良い人だと思い込んでいただけで本質を見抜けなかった自分に気付く
例えば、笑顔の人を良い人だと思って、怖そうな人を悪い人だと自分が認識してしまうから、笑顔の人がちょっと不機嫌に怒ったら、良い人だと思ってたのに〜、怖そうな人が少し優しく笑ったら、優しい人だったんだ〜ってなる。
これは、自分が勝手に決めつけたから起こる事であって、最初から見た目ではなく本質を見抜く力があれば自分の勝手な思い込みで振り回される事はない
自分が相手の気持ちより自分のエゴで相手を見たいように見てただけに気付く
自分が本音が言えず、我慢した結果イライラして
相手を否定してしまう
「私のために全てある」は
感情に流されたり飲まれたりすることなく
自分を深く分析する事が出来るし
相手の本質は、なんだろう?って観察出来る
否定も肯定もなく起きた事を受け入れるって面白い!
これは
頭で理解しただけだと感情に蓋して自己否定になりがちだから
成長と同じで
ハイハイの時期を経て歩くようなイメージ
私は
散々、自分の感情が噴き出て
人のせい、物のせいにしてきて
他人をコントロールしようと必死になる
それで自分が疲れちゃう
そんな自分も、今、振り返れば
よく頑張ってきたな〜って思う
子どもにも感情的になり冷静になれない子育てをしてきた
だから、もう
次の成長の時期だよ
もうハイハイから歩くって決めた(笑)
歩き始めた頃は、ハイハイの方が早いし楽だと思ってしまい、ハイハイしてしまう時もあるけど、、それは、やってしまった後に、やっぱりハイハイより歩いた方が良かったって気付く
ハイハイで見る景色と
立ち上がって歩く景色は違う
ちなみに
主人は
ずっと感情に蓋をしてきて穏やか風に生きてきて
ようやく
感情の蓋を外して自分の感情を出す段階なのかなって思う
子どもの頃に感情を出すことを否定されたら
自分の気持ちを出すのが怖いし、自分がわからなくなる
その経験さえも
それぞれが
「私のために全てある」
その親のおかげで今がある
私は、主人の両親が嫌でした
沖縄に移住しても、似てる人を見かけるだけで
心がザワザワ
だけど
今は、めっちゃ感謝してます。
心から♡
その当時は私にとって嫌な思いだったけど
今、振り返れば
義理両親のおかげで経験出来た
私のために義理両親の存在があった
ありがたいです
私のために風が吹いて
私のために葉っぱがあって木があって
私のために太陽がある
ありがとう♡
新しい生き方を
これからもっと深く観察していこう♪
歩き始めた自分と共に
ゆき