毎年このテーマで書いている気がしますが、決して忘れることのないようにこの日のことを考えてしまいます。
もう3年か、まだ3年か。
私の場合、年数をベースに考えると「もう」3年も前なんだと思うくらいの前の感じがします。
一方で日をベースに考えると、昨日のことも鮮明に覚えていないことも多く、過去を1日ずつ遡るとはっきりと覚えていてすぐに思い出せるあの日は、「まだ」3年前の3月11日です。
今日も東京は寒いですが東北は雪が降っているみたいですね。あの日は盛岡で起床しましたが非常に寒く、東京に戻りながら出張訪問をすべく盛岡駅に向かう途中、北上川のほとりで寒そうにする白鳥を2羽写真におさめたことを覚えています。
午後一番に奥州市を訪問して出張の全日程を終え、一路東京に戻るべく14時頃水沢江刺駅についた私は駅そばで遅い昼ご飯を食べ、14時38分の新幹線やまびこ60号を待ちながら駅に展示してある大きな南部鉄器の写真を撮ったりして過ごしていました。
入線してきた新幹線も撮り、3日間の出張で疲れた私ははやてに乗り換える仙台着の5分前に携帯のバイブをセットして眠りにつきました。
しばらくして体に強めのGを感じたのと、携帯が音付きで鳴り出したことから目が覚め、設定ミスで音が鳴ったのだと非常に焦って音をとめました。
外を見ると新幹線は駅に入っていて、ブレーキをかけたことによるGだったのかと思いました。
※実際には非常停止で強いGであったこと、私の車両はホームに入っていたが後ろは線路上だったことは後から判明しました。
とめた後、私の携帯だけではなくそこら中の席で携帯が鳴っているのに気が付き、画面を見ると今は見慣れた緊急地震速報が来ていました。
ふうーん。
以前にも3回くらいはこのメールを受け取ったことがあったため、見た時点での感想は正直、こんなものでした。
ところが、直後に遠くから何かが近づいてくる音がしていることに気が付き、段々とこちらに向かって来ているのが分かりました。
自分のところに音が到達したときにはゴオーッという轟音になっていたかと思うと一気に吹き飛ばされるほどの揺れが始まりました。
1分以上続く揺れの中で外の電柱が折れ、ホームの人は飛ばされないように太い柱に掴まっているのが見えました。高架で鉄骨作りである新幹線の駅はカンカンカンカンといった金属の鳴る音が響いていて恐怖は半端なかったです。
私は死を意識し、心の中で遺書のような思いを考えていました。
車掌さんの「新幹線は構造上、地震に耐えるよう設計されているので安心してください」という放送が途中3回はあったと思います。正直信用できないくらいの恐怖でしたが、今思えばその言葉でどうにか理性が保たれていたのではないかと思います。
1度目の揺れのあと、避難経路の確認ということで車内に残されていたのですが、そのまま2度目の茨城沖の地震を経験。その後やっと出された街は小雪舞う一ノ関でした。
そこからしばらくの避難生活が始まりますが、震災体験としてはここまでです。
その瞬間、亡くなった命があることは後から知りました。
車内に閉じ込められている間に隣町を津波が襲い多数の命が亡くなったことも後から知りました。
今日くらいは、いつまでも日本にとって普通ではない、追悼の1日を送りたいと思います。