今週は、アメリカのフロリダからK家族が、ぶどうの木の集会に導かれてきました。

4月にK姉妹から最初の問合せをいただきました。

『去年の12月にある出来事からみことばをネットで探していたら、ぶどうの木のブログの【真理から離れさせる遊女の霊】の記事に辿り着き、ブログに書かれている事と実際私が聞いた話とリンクしていてとても印象強く残っています。その時から時々ブログを読んでいて糧にしております。

去年11月に、生きる目的について考えていて、具体的な事はまだ模索中ですが、神さま、イエスさまと一緒に御心のために生きると決めた時から現在までの5ヵ月の間で少しずつですが、聖書を聖霊のガイドで読み、理解を深めることができるようになってきたことや、毎日曜日に教会に行くようになったことなど内の自分に変化があらわれてきました。御言葉に飢え渇いていました。

神様はひとりひとりにカスタマイズされた手段で命の道に導いてくださる憐れみ深い方だと自分の経験を通して実感しています。』


下矢印下矢印下矢印こちらのブログです。

 



K姉妹は子供時代にいろいろなかたちでキリストに出会っていました。兄姉が通ったミッション系の幼稚園に憧れ、道端で見かける御言葉が書かれた看板、ドラクエ(ゲーム)の中に出てくる教会、出身地である秋田市には『涙を流すマリア像』があったりと、ご実家は仏教の家庭でしたが、心の片隅でキリストが気になっていました。

K姉妹は「人生はどう歩いていてもイエス様に繋がるチャンスがある」と感じていたそうですが、日曜日に近所の教会巡りをしていましたが、なんだか宗教的であったり、週報があり、型にハマっていたりで、自分が求めるものにたどり着くことができず、真理を探し求めていました。


集会前日の土曜日に、K姉妹と牧師、兄弟姉妹で交わりをしました。
一人一人が自己紹介をするなかで、N兄弟にスポットがあたりました。

N兄弟は、兄が白血病となり骨髄移植をしなくては命が助からないと医師から宣告され、N兄弟の骨髄が兄と一致し移植をするという経験をされました。
結果、お兄さんは移植に成功し、現在は仕事にも復帰し、お子さんも授かり幸せな生活を送っているそうです。しかし弟であるN兄弟は「自分の骨髄を移植し失敗したらどうしよう、あなたのせいではないかと言われるのではないか」と、当時の事を思い出しては涙してしまいます。お兄さんが幸せに生きていることには目が向かず、当時の悲しい方を思い出してしまう「嘆きの霊」に捕らわれてしまっているのです。
「いつも喜んでいなさい」とイエス様は教えています。その反対「嘆き・悲しみ」は、サタンが持ってくるものです。
更に話を聞くと兄の発病後、義姉側のご両親がお見舞いに一切来ない、免疫が低下している兄を無理に転院させようとした。などと、相手のご両親に対しての裁きの思いが溢れてきました。

牧師の祈りの言葉に続けて、N兄弟は許しを宣言し解放されました。その祈りをしている間は、皆で異言で祈りました。その光景がK姉妹には衝撃だったようです。皆が異言で祈っているときにK姉妹の全身に電気が走る感覚があったようです。牧師からは、

異言の祈りは、サタンには何の祈りかわからないし、いつでもどこでもできるから、力のある祈りだからとK姉妹に語られました。


今週の集会では【異言、御霊の実、霊の賜物、裁き】について語られました。

フロリダから来られたK姉妹から『霊を見分ける賜物を知らない』という言葉が出ました。


コリント人への第一の手紙12:4~11
霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。


アーメン。

ぶどうの木は「クリスチャンになりたい」といって集まってきた人は一人もいない。各々御霊によって導かれ、一人一人違う道を通って神に集められた群れです。

『霊の賜物』には様々あり、教会ごとにミッションが存在します。
しかし教会ごとに違う働きがあっても、主はただ一人イエス様だけなのです。


人間には9個の御霊の実というものがあります。
 






ガラテヤ人への手紙5:22~23
御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 


アーメン。

この9個の思いはイエス様が与える感情かサタンが持ってきたものをかを見分ける基準で、[愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」以外、「怒り、憎み、悲しみ、強欲」といった思いは悪霊によるものです。

ぶどうの木の絵本「1つになろうよ!! 命の絵本~命の糸に会う本~」では、御霊の実が育つ家庭を子育てを通して両親がどう与えていくのかが書かれた絵本です。

両親から御霊の実を教えられ、身につけた子供は、自分がしてもらったように、周りの子にも優しく愛をもって接することができるようになり、またその子が大人になれば、おのずと平和も訪れるでしょう。

だからこそ家庭教育が大切で、両親が正しく教えているかが大事なのです。

イエス様は人間に【賜物】という力を与えることもあります。
【賜物】にも種類がありますが、全ての人に与えられるわけではありません。
いただける人は「9個の御霊の実がなっている人」だと言われています。
そうでなければ癒しや賜物に力を発揮したとき高ぶる恐れがあり、あえてイエス様が与えないということもあるのです。


そして【異言】についても語られました。

私達は神に祈る時に、言葉で祈る事もあります。

例えば「〇〇さんの病気が癒されたこと感謝します」とか。

しかし、異言の祈りは神が与えた新しい言葉であり、自分達と神にしかわからない言葉です。

クリスチャンが悪霊の追い出しをする時、相手をとらえてるものがわからないことがあります。
そういった時は異言で祈り悪霊を縛り上げます。


ローマ人への手紙8:26
御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。

アーメン。


【異言】によって御霊がうめき、それを聞いたイエス様が助けて執り成してくださるのです。
また【異言】は人間とサタンには理解出来ない言葉の為、サタンは一切邪魔をすることができません。

牧師が集会の中で【異言】によって起こった証をしてくださりました。

・牧師が台所でお米を洗っている時に、イエス様に「祈れ。」と言われたそうです。お米も洗っている途中でしたが、祈らずにおられず、霊の思いに従って祈ったそうです。その時には、何のために祈ったかはわかりませんでしたが、その後テレビを点けると、駿河湾上空で日本航空機と自衛隊機がギリギリのところで衝突を免れたというニュースが流れていて、その時間を見ると牧師が祈っていた時間だったそうでした。後に牧師はイエス様から「祈りによって、衝突が回避された。」と語られ異言の祈りの力を実感したそうです。

・牧師の御主人が出張でインドネシアに行っている時でした。牧師は当時、就寝中でしたが、夜中にイエス様に「祈れ。」と言われたそうです。寝室からリビングに移動し祈ったそうです。だんだん異言が激しくなり、座っていたソファから落ちながらも祈り続けました。その時も、何のために祈ったかはわかりませんでした。御主人が日本に帰ってきてからわかった事ですが、御主人が出張先のインドネシアの空港に着いた時に、1人の男性が迎えに来ていたそうです。車に乗ると、別の男性が2人乗っていたそうです。そのまま、ホテルではなく山へと連れていかれました。金銭やパスポートを要求してきたそうです。つまり誘拐されたという事です。しかし、御主人は内側から勇気が湧き、3人の男性に向かい関西弁で、ホテルに連れていくように命令したそうです。3人の男性はひるんで、何事もなくホテルに連れて行ってくれたそうです。到着したホテルでは、御主人がいなくなったと大騒ぎになっていたそうです。それが牧師が異言で祈った時間だったそうです。御主人に聖なる勇気を与え、犯人から守る為に祈ったのだとわかりました。


牧師の証のとおり、家族の為だけでなく飛行機に乗っていた見ず知らずの人の為にも祈ることができることから、異言の祈りはとても大事なものだとわかりました。

また悪霊の名前を言う時間がない時も、異言があれば瞬時に祈ることもできるのです。

こうして祈ったり、御言葉を行い神の力を体験し信仰を強めることができます。


【御霊の実・霊の賜物】はクリスチャンにだけ与えられるものであって、スピリチュアル的なものとして使われている時は気を付けなければいけません。

【御霊の実】を成らすには、神に訓練されます。
それはとても厳しいものであり、そのため一朝一夕で身につくものでもありません。
つまり自分が思い立ったからと言って、牧師になれるわけでもなく、その群れで一番神に鍛えられた人がなって引っ張っていくのです。そうでなければ羊を惑わす側になる可能性もあるからです。

御霊はイエス様が思いのままに、それらを各自に分け与えられます。
クリスチャンはそれを与えられるように祈ることが大切です。


また、私たちはキリストの肢体だと例えられます。


コリント人への第一の手紙12:12~31
からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか。だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。

コリント人への第一の手紙13:1~11
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

アーメン。


クリスチャンは、各々に役割があります。人と比べることでもありません。一か所、一人でも悩めばそれは群れ全体のものです。またクリスチャンも一つの体であり、洗礼、水のバプテスマを受け霊から一つにならなければいけません。

そしてどんなに力があっても『愛』がなければそれは無に等しいのです。
人は一人では生きてはいけません。互いが思いやり、助け合うことができる愛がなければいけないのです。

人を愛することもですが、私たちは聖書に書かれていることを素直に忠実に行うだけです。

例えば自分の不満に群れの人が賛同してくれないことを不服に感じているとしましょう。
なぜみんなが同じ意見を持たないか、それは聖書に共に裁けとは書かれていないからです。
クリスチャンの行動はシンプルで、聖書に書かれているかいないかです。


私達は知恵の言葉を求めることもあります。
知恵の言葉とは「打ち上げられた鯨、矢の刺さったカモ」をなんとかして助け元気によみがえらせてあげたいと思い働きかけるものであります。それでも悪にとらわれてる人は逃げようとします。
それによって傷が悪化し最後は死の道へ進んでしまうのです。
知恵の言葉をいただくことで相手を解放へ導き、見えていない部分が見え自分の悪から離れることができるのです。また1つ2つの方法も与え語ることがあるのです。そうやってなんとしてでも命に導きたいのがクリスチャンです。特に今であればワクチンを止めるために知恵の言葉は必要です。


人間誰もが、一度は持ったことがある思い「裁き」これは殺人だと語られました。
人は言葉で、時には心の中で相手を裁きます。
口ではきれいごとを言っても、内側が真っ黒でドロドロの人はいるのです。



マタイによる福音書7:1~5
人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

ローマ人への手紙14:4a
他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。


アーメン。

人が誰かを裁く時、それは神の守りの中から外れることにもなり、「自分が相手をさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられる」のです。

裁くことは愛のない行動、無慈悲、霊的殺人となるのです。

「兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。」と教えられていることも、裁く人は相手のことは見えても自分にある大きな梁に気づいていないのです。相手に言う前に自分を吟味です。

裁く人は偽善者です!!敵はサタン!!戦う相手は悪霊です!!

イエス・キリストが僕たち人間の罪のために、無条件で十字架刑に架かってくれたように、僕たちも全てのことを無条件で赦さなくてはいけません。
無条件の赦しとは文字通り、相手に対して何の見返りを求めず、一方的に相手を赦すことです。
これはイエス・キリストによって自分の意思ではできないと思っていたことも聖霊の助けによりできるのです。



〈みことばノート28 さばき・批判〉 を読みました。


ヨハネによる福音書 7:24
うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。

ローマ人への手紙14:13
それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。

コリント人への第一の手紙5:11~12
しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。

ヤコブの手紙2:13
あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。

アーメン。

神がわたしたちに、人のあやまちや罪を見せてくださるのは、祈らせるために知識の言葉を与えてくださったのです。とりなしの祈りをするよい機会です。霊の目で見せてくださったことをさばきと批判の材料にしてはいけません。あなたが祈ることで、聖霊にその人の目を開き、罪を認めさせ、きよめる働きをしていただくのです。神は今ある状態を訓練の場として、祈る人も祈られる人も共に成長させてくださいます。その上で聖霊に示されたなら、霊の人として、柔和な心をもって、その人を正すべきです。(ガラテヤ6:1)
モーセでさえ、自己中心がくずされてすこぶる柔和なものとされるのに、荒野のどこかで40年もかかったのですから(民数記12:3)忘れないでください。神はその人の内によいわざをもう始めてくださっています。(ピリピ1:6)そしてまたご自身がその人の信仰の導き手であり、完成者であられます。自分ですらまだ完成されていないのですから、高ぶってはいけません。もうすでに完成された人が地上にいるのでしょうか?
ところで、霊をためす判断は、批判的なさばきとは別のものです。(1ヨハネ4:1~2)


さばき:有罪宣言をする・結論を下す。
ためす:ほんとうかどうかを吟味する・テストする・裁判中(まだ判決は出ていない段階です。)


わたしたちクリスチャンは、もはやだれをも批判したり罪に定めたりできないことが、これらのみことばからも明らかにわかります。


ローマ人への手紙12:10
兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。

コリント人への第一の手紙10:12
だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

エペソ人への手紙4:32
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

ローマ人への手紙2:1
だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。


アーメン。


神は私たちの心をご存じです。
微塵でも裁く思いがあれば、相手を牢獄に入れることです。
しかし自分の罪はどうか、裁いた相手以上にもっとすごい牢に入れられてる可能性もあるのです。

互いが思いやり、助け合い、敵はサタンであることを知り人を赦すことができなければ世界の未来は危ういでしょう。

聖書=神が言われる『愛』とは、清い心と正しい良心、偽りのない信仰から生まれる『愛』だと学びました。

①  清い心=自分の利益を求めない心、誰をも血肉で見ることなく誰をも裁かない心。

②  正しい良心=何が神のみ旨であり、全き事で神に喜ばれることかをわきまえ知る心。

③  偽りのない信仰=イエス様に信頼し、聞き従う心。


テモテへの第一の手紙1:5
わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。


アーメン。

究極を言えば「自分の清さ、聖さのために裁かない」ことです。

裁きという呪いが、誰かの体調を崩させたりするように、自分もだれかに裁かれることのないように生きることです。


エペソ人への手紙6:10~20
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。


アーメン。

僕達が生きている世界はサタンの支配下にあり、サタンは目に見えることや感じることを使い、感覚や感情に対して巧みに攻撃を仕掛けてきます。

『神の武具』とは、聖書の言葉=「みことば」です。神の武具を身につけるとは、「みことば」を自分の中に蓄え、成就させることです。そして、強い「信仰」が自分達のなかに育っていきます。

「悪霊」の存在や悪霊に打ち勝つ「力」を理解し、皆さんもこの時代の「悪霊」から勝利することができます。

聖書は、本当の敵は加害者ではなくサタン、悪霊なのだと教えています。

裁きがない世界が生まれた時、喧嘩やいじめ、戦争が無くなります。

人間が真理を知れば世界が変わります。

皆さんが神の守りの内を歩き、これからの日々を平安に過ごせたことに感謝します。


ルカによる福音書10:19~20
わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。


アーメン。