真理から離れさせる“遊女の霊” | ぶどうの木 Good News

真理から離れさせる“遊女の霊”

holygirlですガーベラ

 

今週は、自分が正しく生きようとする時に働きかけてくる「遊女の霊」についても語られたので、過去のブログも引用しながら書いていきます。

情欲で人を見る、神を愛することを忘れて隣人愛ばかりを行なおうとするなら、それは遊女の霊の仕業です。

箴言には、遊女の霊について書かれており、神は私たちの生活に入り込む遊女の霊に気をつけるように警告して下さっています。

 

箴言5:1~23本

わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。これは、あなたが慎み(クリスチャンとしての品位)を守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。(←上手に迫ってくる)しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。(←遊女の霊に捕われている自覚がない)

子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、教師(イエス様、聖霊)の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。(←安易に交わらない)あなたの泉に祝福を受けさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。(←持っているもので満足する)彼女は愛らしい雌じか、美しいしかのようだ。いつも、その乳ぶさをもって満足し、その愛をもって常に喜べ。(←イエス様=みことばにとどまる)わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる。悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。(←まいたものは刈り取り、握ったもので滅ぼされる)彼は教訓がないために死に、その愚かさの大きいことによって滅びる。

 

箴言6:20~35本

わが子よ、あなたの父(神・イエス様)の戒めを守り、あなたの母(牧師・兄弟姉妹)の教を捨てるな。つねに、これをあなたの心に結び、あなたの首のまわりにつけよ。これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを守り、あなたが目ざめるとき、あなたと語る。戒めはともしびである、教は光である、教訓の懲らしめは命の道である。これは、あなたを守って、悪い女に近づかせず、みだらな女の、巧みな舌に惑わされぬようにする。彼女の麗しさを心に慕ってはならない、そのまぶたに捕えられてはならない。(←心でこの世のものに姦淫してはならない)遊女は一塊のパンのために雇われる、しかし、みだらな女は人の尊い命を求める。人は火を、そのふところにいだいてその着物が焼かれないであろうか。(←自分に害が及ぶ)また人は、熱い火を踏んで、その足が、焼かれないであろうか。その隣の妻と不義を行う者も、それと同じだ。すべて彼女に触れる者は罰を免れることはできない。盗びとが飢えたとき、その飢えを満たすために盗むならば、人は彼を軽んじないであろうか。もし捕えられたなら、その七倍を償い、その家の貨財を、ことごとく出さなければならない。女と姦淫を行う者は思慮がない。これを行う者はおのれを滅ぼし、傷と、はずかしめとを受けて、その恥をすすぐことができない。ねたみは、その夫(イエス様)を激しく怒らせるゆえ、恨みを報いるとき、容赦することはない。どのようなあがない物をも顧みず、多くの贈り物をしても、和らがない。

 

箴言7章本

わが子よ、わたしの言葉を守り、わたしの戒めをあなたの心にたくわえよ。わたしの戒めを守って命を得よ、わたしの教を守ること、ひとみを守るようにせよ。これをあなたの指にむすび、これをあなたの心の碑にしるせ。知恵に向かって、「あなたはわが姉妹だ」と言い、悟りに向かっては、あなたの友と呼べ。そうすれば、これはあなたを守って遊女に迷わせず、言葉巧みな、みだらな女に近づかせない。わたしはわが家の窓により、格子窓から外をのぞいて、思慮のない者のうちに、若い者のうちに、ひとりの知恵のない若者(←救われる前の自分)のいるのを見た。彼はちまたを過ぎ、女の家に行く曲りかどに近づき、その家に行く道を、たそがれに、よいに、また夜中に、また暗やみに歩いていった。(←遊女の霊の働きは、暗闇で隠して行う)

見よ、遊女の装いをした陰険な女が彼に会う。この女は、騒がしくて、慎みなく、その足は自分の家にとどまらず、ある時はちまたにあり、ある時は市場にあり、すみずみに立って人をうかがう。この女は彼を捕えて口づけし、恥しらぬ顔で彼に言う、「わたしは酬恩祭をささげなければならなかったが、きょう、その誓いを果しました。それでわたしはあなたを迎えようと出て、あなたを尋ね、あなたに会いました。わたしは床に美しい、しとねと、エジプトのあや布を敷き、没薬、ろかい、桂皮をもってわたしの床をにおわせました。さあ、わたしたちは世が明けるまで、情をつくし、愛をかわして楽しみましょう。夫(イエス様)は家にいません、遠くへ旅立ち、手に金袋を持って出ました。満月になるまでは帰りません」と。(←このぐらい何が悪い、神は許してくれると言って、すっかり心が離れている状態)女が多くの、なまめかしい言葉をもって彼を惑わし、巧みなくちびるをもって、いざなうと、若い人は直ちに女に従った、あたかも牛が、ほふり場に行くように、雄じかが、すみやかに捕えられ、ついに、矢がその内臓を突き刺すように、鳥がすみやかに網にかかるように、彼は自分が命を失うようになることを知らない。

子供らよ、今わたしの言うことを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。あなたの心を彼女の道に迷ってはならない。彼女は多くの人を傷つけて倒した、彼女に殺された者は多い。その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く。

 

アーメンひらめき電球

 

神学では、箴言に書かれている遊女は、男女の間に働く霊として解釈されています。しかし、助け主聖霊によって読むと、遊女の霊は、男女間だけではなく、人との間に働く霊であり、救われる前の人間は皆、遊女の霊に捕われていたことが分かります。

あたかも、“聖霊の導き、良さそうなこと”と思わせるような巧みな策略で人間一人一人を惑わし、神のもとから引き離すのが遊女の霊です。私たちは、気が付いたらとんでもない道に迷い込んでいます。
 

【遊女の霊】の動きについて、分かりやすい例が載っていた本があるので、その中から抜粋して紹介しますひらめき電球
聖霊を汚す、汚れた遊女の霊は、いつでも人間に対して入り込もうと狙ってあたりを歩き回っています。そして少しの隙をついて、以下のようにして自分より悪い他の様々な霊力を引き連れて人間に働きかけてきます。 

『ある男性は、7年前にすばらしい霊的解放を経験してから、郊外へ引っ越し、そこで教会に通い始めました。この人はいつも車で町の中心街を通って仕事場に行っていました。そんなある雨の日、バス停に一人の男性が立っていることに気づきました。かわいそうに思って、彼はその人を車に乗せてあげました。すると、この男性は、彼に親しげにタバコを勧めたそうです。イエス様の事を証する素晴らしい機会なのに、彼はタバコをその人から受け取ったのです。これが堕落した、地上で経験する地獄の始まりとなりました。それ以来、この友人を毎日車に乗せては二人でタバコを吸い、間もなく一緒に酒を飲もうという事になり、居酒屋通いが始まりました。次は競馬の賭け事です。最後にその人は「僕は君の事を愛している」と打ち明けたそうです。彼には美しい妻があり、四人のすばらしい子どもたちに恵まれた家庭がありました。ちゃんとしたクリスチャンであった一人の男性が、その妻と家庭を捨てて、同性愛者となり、他の男性と一つ部屋に同居することになるなんて、いったい、何がそうさせたのでしょうか?悪魔がその人を欺き、汚れた悪霊どもを通して働いたからにほかなりません。』(悪霊を追い出せ!H・Aマックスウェル・ホワイト著) 

マタイ12:43~45本
汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。 

アーメン宝石ブルー
遊女の霊の声は、肉に働きかけ、耳元でささやくヘビの声です。それは「本当かな・・・」「イエス様からかな・・・」と確信が持てない不安定な歩きです。しかし、聖霊の声は、喜びと共に腹からわき上がる声であり、そこにはみことばが伴った平安があります。
私たちはどんな時も、すべての事柄をイエス様の御前に置き、みことばとイエス様の血によってサタンを縛り、霊を試す祈りによって、遊女の霊ではなく、聖霊に導かれて歩く安全な道を選び取らなければなりません。近づいてくる霊を見極められるように、神の宮である自分の内側を聖く保ち、主にある知恵と悟り(みことば)を求め蓄えておかなければなりません。
悪霊の力を甘く見てはいけません。無知でいてはなりません。霊の世界を歩くために、クリスチャンに対してどれだけの賢さと、思慮深さを求められるのかということが強く語られています。

 

そして、遊女の霊は、この世の中の物事や人を使ってクリスチャンに働きかけてきますから、交わりには気を付けなければなりません。 

第1コリント15:33~34本
まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。
目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。 

しかし、このみことばによって、この世の人とは関わらない、テレビやニュースも見ない、関心さえ持たない・・・と極端に他者との交わりを拒んでいるクリスチャンもいます。そのような歩きの根底には恐れや裁き、自己愛などがあり、ひとりよがりのカルト宗教の霊力に支配されてしまっています。そのようなクリスチャンは、人々に対してつまずきを与え、イエス様から散らす者となっています。
聖霊に導かれるクリスチャンの歩きは、どうにかして幾人かを救いに導きたいという、キリストの愛をもって、どこでも、誰に対しても光となって、その場を聖いものにしていきます。それは、決してイエス様から散らす歩きではなく、神にも喜ばれ、人にも受け入れられる公明正大な歩きとなります。 


第1コリント9:19~23本
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
 
ローマ14:16~18本
それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。 

もし、信仰の歩みの中で遊女の霊がクリスチャンに働きかけてきて、その道に引きずり込もうとしても、それに気づき、素早く聖霊の力によってサタンの策略を打ち破るなら、遊女の霊に使われた人や事柄さえも、すべてを益に変えることができます。闇は光には勝てないのです。聖霊は、どんな闇でも、光に変えてしまうほどの圧倒的な力を持っているのです!
上記の男性も悔い改め、悪霊を追い出し、解放されたことにより、家族も彼をゆるし、家庭が回復され、仕事も祝福されて喜びの内に生活できるようになったそうです宝石紫

 

また、トラクト「神の国は力である」に書かれているように、群れに置かれているクリスチャンは、イエス様を頭として、それぞれが肢体です。そして、牧師は聖霊によって油注がれた、霊の世界においての司令官です。聖霊の賜物によって霊(サタンの策略)を見分け、解き明しをし、知恵の言葉(サタンの策略を打ち破る方法)で群れの羊に指示を出します。羊は信仰で、その知恵の言葉を行っていった時、聖霊の支配の中で初めてサタンに勝利、前進していけるのです。

バレーボールに例えるならば、霊の世界を見極めて最高のタイミングで、トスを上げてくださるのが監督者である牧師、そのボールを打って、スパイクを決めるのが、それぞれの羊の役割になります。羊もそれぞれで、達し得たところに従ってスパイクが決まる羊もいれば、スパイクとは言えないボールになってしまう羊もいるでしょう。しかし、イエス様は、その羊の腕前を見られるのではなく、その心を見られ、また、聖霊も、その羊の心・真剣さを見て働かれるのです。 

このようにして信仰により、みことば(神の戒め)に従っていく羊には、次々と証・実がなっていきます。しかし、遊女の霊に捕らわれると、その聖霊の導きである的確なトスを軽んじてあざけるようになり、クリスチャンに与えられているサタンと戦う権威を使う事も怠り、不信仰となります。信仰の行いであるスパイクを打たないのです。兄弟姉妹の祈りによって、また、牧師の的確なトスが聖霊によって何度もあげられますが、遊女の霊に捕らえられたクリスチャンは、それらを無駄にするのです。

何度も何度も同じ過ちを繰り返し、その度に悔い改めてみるものの、自分の内側をきよめ、変わろうともせず、いつまでも神へのあざけりや、高ぶり、不信仰や占いなどを持ったまま、同じことを繰り返す・・・。
その度に神が遣わしたクリスチャン達の寛容・労苦・時間・金銭、優しさ(愛情)などを奪っていきます。それは、神の「慈愛」「忍耐」「寛容」との富をあざけり、奪っているのと同じです。

ローマ2:4~6本
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。 

マタイ12:31~32本
だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。 

そして、クリスチャンでありながら、自らが遊女となって、聖霊を汚しながら歩いている羊には、箴言6:16~19に書かれている7つの事が当てはまります。 

箴言6:16~19本
主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。
すなわち、高ぶる目(自分の義)、

偽りを言う舌(状態ばかり言う、信仰によらない言葉を出す)、

罪なき人の血を流す手(裁き、悪口で相手を追い込む)、

悪しき計りごとをめぐらす心(目には目、歯には歯をする、相手の感情や自分自身の未来を占う)、

すみやかに悪に走る足(光に来ず、闇側に入る、公明正大ではない)、

偽りをのべる証人(うそつき、イエス様から来ていない事を言う)、

また兄弟のうちに争いをおこす人(つまずきを置く、一つ思いになれない)がこれである。 

私たちは、自分自身の内にこのあらわれがないか吟味しました。一つでもあれば、クリスチャンとしての品位はなく、清廉潔白とも言えないのです。

また、遊女の霊に捕えられていては、絶対に肉と霊の聖別が行われることがありません。真理から離れ、迷いの霊(反キリスト)に属する者となってしまいます。

 

第1ヨハネ4:1~6本
愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。 

 

アーメン宝石赤
遊女の霊から解放され、平安な命の道を歩むには、父の戒め=みことば=イエス様(神を愛する者は戒めを心にとめる!)を守り、母の教え(知恵の言葉)を行い、自分の内側をきよめて、自身の心が神の求める“良心”となっていかなければなりません。 
そして、自分の“意思”を、神の戒めを守るという“意志”に変えて行った時、細いけれど確かな真理の道・聖霊に導かれた平安な命に至る道を歩くことが出来るのですまじかるクラウン

 

箴言8章本

知恵は呼ばわらないのか、悟りは声をあげないのか。これは道のほとりの高い所の頂、また、ちまたの中に立ち、町の入口にあるもろもろの門のかたわら、正門の入口で呼ばわって言う、「人々よ、わたしはあなたがたに呼ばわり、声をあげて人の子らを呼ぶ。思慮のない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ。聞け、わたしは高貴な事を語り、わがくちびるは正しい事を語り出す。わが口は真実を述べ、わがくちびるは悪しき事を憎む。わが口の言葉はみな正しい、そのうちに偽りと、よこしまはない。これはみな、さとき者の明らかにするところ、知識を得る者の正しとするところである。あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、精金よりも、むしろ知識を得よ。知恵は宝石にまさり、あなたがたの望むすべての物は、これと比べるにたりない。知恵であるわたしは悟りをすみかとし、知識と慎みとをもつ。主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。計りごとと、確かな知恵とは、わたしにある、わたしには悟りがあり、わたしには力がある。わたしによって、王たる者は世を治め、君たる者は正しい定めを立てる。わたしによって、主たる者は支配し、つかさたる者は地を治める。わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。富と誉とはわたしにあり、すぐれた宝と繁栄もまたそうである。わたしの実は金よりも精金よりも良く、わたしの産物は精銀にまさる。わたしは正義の道、公正な道筋の中を歩み、わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる。

主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、山もまだ定められず、丘もまだなかった時、
わたしはすでに生れた。すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。

それゆえ、子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの道を守る者はさいわいである。教訓を聞いて、知恵を得よ、これを捨ててはならない。わたしの言うことを聞き、日々わたしの門のかたわらでうかがい、わたしの戸口の柱のわきで待つ人はさいわいである。それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である」。

 

アーメン乙女のトキメキ

遊女の霊によって自滅するのではなく、神の偉大な愛の内を歩んでいけたことを感謝しますハート