われわれの知識は、すべて経験に基づくものであり、知識は結局のところ経験から生ずるのである

 

                ジョン・ロック

    

以前紹介した方法を用いて縦書きで記載。俳句や短歌をブログに掲載したい方は使ってみてね。


朝早い通勤時間、シャッターが閉まった自転車屋の前でひとり大声で怒鳴る中年男性。片手に備え付けの空気入れのホース。空気が自転車のタイヤに入らないのだろう…。

 

なぜ怒鳴るのか。ふと中年男性の歴史を想う。怒鳴っても周囲が許してきた。それどころか、怒鳴ることで社会の一場面を凌いできたのかもしれない。話をする、注意をする、叱るの前に怒鳴ることは到底擁護できないが、ある種の職業では必要なこともあるだろう。怒鳴ること、これが中年男性の人生の教科書の一頁に記されているのだ。次に生かせる“経験”という訳だ。

 

 

人はなぜものを食べるのか。むろん、お腹がすくからだ。胃からの欲求だ。

 

次になにがあるか。舌だ。味覚の発達していない子供は甘いものを好む。母乳やミルクの味から知ったからだ。成長するにつれ甘味以外の味を識別するようになる。年数を重ねるほど微細な味の違いがわかるようになる。

 

次にくるのが鼻だ。ハーブで香りのアクセントを加えるだとか、チーズのなどの発酵食品では香りを愉しむとさえ言えるものがある。

 

その次が目。暖色系の色どりで食欲をそそり、芸術作品のような食器類とその配置、盛り付けの妙。

 

こうして人は、味はもとより、香りにこだわり、視覚をも巻き込んで、“経験”に応じて食の感覚を研鑽していく。各国の料理の歴史は、研鑽されてきた人々の感覚に添った結果だろう。食文化は“経験”に裏打ちされているのだ。

 

 

『われわれの知識は、すべて経験に基づくものであり、知識は結局のところ経験から生ずるのである』

 

人はつかまれる止まり木を欲するものだ。自由といっても、何もないだだっ広いところに放り出されたのでは不安が先にたつ。“経験”という歩んできた一歩一歩をふり返っては止まり木にし、次の一歩を踏み出す。

 

しかし、ここに弱点はないだろうか。食の場合、胃→舌→鼻→目。初めにあった胃から大きく逸脱しているではないか。経験主義は得てして微細な部分にこだわりをみせる。ラーメンでもなんでもいい。微細な部分を追い求めた結果、これ以上進めない袋小路に突き当たっていないか。一つの体系でしか舌を鍛えない、奥義を極めるはその実、頽廃ではないのか。

 

経験主義は未知の新しいものに弱い。“経験”という止まり木では計れないからだ。袋小路に陥った舌は、そのうち下の肉のような野蛮で原始的な食べ物に出会い、衝撃を受けるだろう。昔の格闘技・K1で、アーネスト・ホーストらが技術を磨いた後、突然ボブ・サップがシーンを席捲したように。そして取って代わられる。

 

横山光輝著「三国志」「水滸伝」の漫画で、山賊どもが食らっているような肉。ものすごくうまそうだ。

 

 

書くことも同様、「こんなものを書いてよいのだろうか?」と不安になるような文章を初めから書かなくなっているのではないか。荒々しく野蛮で世を震撼させるような文章や文学を見たい。

 

 

前回の続き…ではないですが、書くことに向かい合うシリーズでした。経験を拠り所に行動することを否定しているのではないです。それどころか大切なことだと思います。

フォロワーさん・ブロ友さんにとっては眉間に皺シリーズかも。自分用なので悪く思わないでいただけたら幸いです。