永楽帝~大明天下の輝き~ #43 安らかなる別れ あらすじ

 

 

 

鄭和ていわ馬和ばわ)は、同郷の沐敬もくけい朱棣しゅていの侍従とした。

妙雲みょううんは利発そうな沐敬もくけいを気に入った。

 

瞻基せんきは勉学にも弓馬にも秀で日に日に立派になっていた。

姚広孝ようこうこう解縉かいしんに命じた編纂作業はもうすぐ終了する。

 

せい侍医は、妙雲みょううんの命のともし火はすでに尽きかけていると朱棣しゅていに伝えた。

朱棣しゅていは妙雲のために宮中での殺生を禁止し、死刑の執行を延期させ、恩赦を行うなどした。

 

徐輝祖じょきそが亡くなり、妙雲みょううんは葬儀に参列した。

増寿ぞうじゅが命を捧げ朱棣しゅていに仕えたのに、朱棣しゅてい徐輝祖じょきそを幽閉し心を殺した。

徐輝祖じょきそ朱棣しゅていに殺されたのだと、妙錦みょうきん妙雲みょううんに言った。

妙雲みょううんは倒れた。

 

朱棣しゅてい徐輝祖じょきその長子徐欽じょきん国公の爵位を継がせた。

 

妙雲みょううんは、自分と共に北京を守った将兵の家族たちに恩賞を与え続けていた。

自分が亡くなった後の彼らのことを朱棣しゅていに託した妙雲みょううんは、鳳陽ほうようでの幸せだった日々を懐かしみながら亡くなった。

 

朱棣しゅていは3日間妙雲みょううんのそばを離れなかった。

 

蘇門答腊スマトラ古里カリカット満剌加マラッカ小葛蘭キーロン阿魯アル―を属国にした鄭和ていわが、各国の使者と共に戻ってきた。

鄭和ていわが連れ帰った医師は、彼らの望むようにさせた。

妙雲もきっとそうしただろうからだ。

 

編纂開始から3年で編纂作業は終了した。

延べ3億7千万字に及ぶ大作業だ。

読書好きな妙雲みょううんがこの光景を見れば、どれほど喜んだだろうかと朱棣しゅていは思った。

 

韃靼タタールの権臣阿魯台アルクタイ伯顔帖木児パヤンテムル)が大汗ダハン鬼力赤クイリチを殺し本雅矢里ベンヤシリを擁立したとの報告が入った。

朱棣しゅていは太子である高熾こうしに監国を任せると、北京に向かった。

朱棣しゅてい瞻基せんきも連れて行った。

 

朱棣しゅていとう州と甘粛かんしゅく茶馬司ちゃばしを増設し茶葉と草原の良馬を交換し、瓦剌オイラトの首長3名を冊封することで漠北ばくほくの各部族をなだめていた。

北京についた朱棣しゅていは、郭驥かくきを使者として韃靼タタールに送った。

 

穏便な策を取るのは、北京に遷都しようと考えているからかもしれないと、夏原吉かげんきつは考えた。

 

本雅矢里ベンヤシリ阿魯台アルクタイに相談せず、郭驥かくきを斬首した。

伯雅倫海別パヤルンハイベは、朱棣しゅていは激怒するだろうから、兵を集めるようにと阿魯台アルクタイに助言した。

 

朱棣しゅていは北伐を開始した。

 

本雅矢里ベンヤシリが独断で郭驥かくきを斬首した後、阿魯台アルクタイ本雅矢里ベンヤシリの親軍を自分の息のかかった者に代えた。

朝廷の事務は阿魯台アルクタイが1人で決定している。

本雅矢里ベンヤシリ阿魯台アルクタイに対抗するため、瓦剌オイラトと組もうとしたが、阿魯台アルクタイ瓦剌オイラトの使者を殺した。

 

長城外には韃靼タタール瓦剌オイラト兀良哈ウリャンハイという3大部族がいる。

韃靼タタールに明が大部隊を派遣したら、他の2部族はどう動くか、朱棣しゅてい瞻基せんきに問いかけた。

 

明が韃靼タタールに大部隊を送れば、遠路の行軍をすることになり、勝利しても明はすぐに帰還することになる。

そして韃靼タタールは疲弊する。

瓦剌オイラトの3王は喜ぶだろうし、馬哈木マフムードは漁夫の利を狙うだろうと瞻基せんきは答えた。

 

朱棣しゅていは前線にいる丘福きゅうふくに、大軍は慎重に動かし、軽率に韃靼タタール討伐を進言する者は50たたきにするよう命じた。

 

 

 

 

感想

 

妙雲みょううんが亡くなってしまいました。

「安らかなる別れ」というタイトルと、妙雲みょううんの体調が悪いことから、うっすら覚悟はできていましたが、やっぱり悲しかったです。

 

朱棣しゅていは妙雲が亡くなってからも3日間そばを離れませんでした。

瞻基せんきに「祖母上の魂があの世で安らげません」と言われて、そばを離れました。

大人たちが話し合って、瞻基せんきを説得役に派遣したんでしょうね。

 

妙雲は瞻基せんきのことを朱棣しゅていの若い頃に少し似ていると言い、朱棣しゅていは自分よりも物分かりがいいと言っていました。

瞻基せんきは2人のお気に入りの孫。

だから抜擢されたんでしょうね。

見事に与えられた役割をやってのけた瞻基せんきは、すごいです。

 

妙雲が亡くなってからも、事あるごとに朱棣しゅていが妙雲を思い浮かべていたのが印象的でした。

鄭和ていわが連れ帰った医師や、編纂が完了した書物。

妙雲だったら、医師にどんな対応をしただろうか、妙雲みょううんがこの大量の書物を見たら、どれほど喜んだだろうか、と考えている朱棣しゅていの姿に愛を感じました。

 

Wikipediaさんによりますと、妙雲みょううんが亡くなったのは1407年の8月6日だそうです。

妙雲は45歳。若すぎるよーえーん

(前回朱棣に白髪が混じっていたので、57歳くらいかも(!?)とか書きましたが、朱棣は1407年の時47歳でした。)

 

 

徐輝祖じょきそは幽閉されたまま亡くなりました。

皇帝の奥さんというと、寵愛を笠に着て自分の親族を出世させる存在、というイメージがありましたが、妙雲みょううんは全くそういうことをしませんでした。

そのあたりが無私無欲と言われる所以なのかな、と思いました。

 

他人に優しく自分に厳しかった妙雲。

共に北平ほくへい城を守って戦った将兵の家族に恩賞を与え続けていました。

これまでも、朱棣しゅていや彼のブレインたちが思いつかない部分に気を回し、朱棣しゅていを支え続けていました。

 

7人の子を産み、隅々まで気を遣い、自分よりも他人を優先した。

妙雲は皆から尊敬を集め好かれていました。

神様にまで好かれてしまったから、妙雲は早く天国に行ってしまったんだと思います。

 

妙雲を亡くし意気消沈していた朱棣しゅていですが、阿魯台アルクタイ伯顔帖木児パヤンテムル)が鬼力赤クイリチを殺し本雅矢里ベンヤシリを擁立する、という事件が起き気力を取り戻した様子(?)。

 

擁立したものの、本雅矢里ベンヤシリ阿魯台アルクタイは不仲で、お互いに自分が草原の主だと認められようとしています。

 

瓦剌オイラトは明の冊封を受けつつ、本雅矢里ベンヤシリにも使者を送るなど、したたかに立ち回っているようです。

 

瞻基せんきの読みによれば、瓦剌オイラト韃靼タタール兀良哈ウリャンハイも合併という手段は取らず、力で草原の覇者になろうとしている。

明が韃靼タタールを攻めれば、漁夫の利を狙う馬哈木マフムード瓦剌オイラトの有力な王(?))が喜ぶことになるようです。

 

瞻基せんきがあまりにもすごすぎるので、何歳なのか気になり調べました。

そうしたら、1407年(妙雲が亡くなった年)に8歳。1399年生まれでした。

末恐ろしいです滝汗