永楽帝~大明天下の輝き~ #40 決意の南下 あらすじ

 

 

 

自軍に戦う力がないと考えた盛庸せいようは、張玉ちょうぎょく張輔ちょうほだけでなく、捕らえたえん軍の武将全員を返すことにした。

 

川を挟んで捕虜の交換が行われ、張玉ちょうぎょくの亡骸と張輔ちょうほが帰ってきた。

 

東昌とうしょうで惨敗したえん軍は3割の精鋭と張玉ちょうぎょくを失い士気が低下していた。

朱棣しゅていも意気消沈していた。

 

妙雲みょううんは初めて負けを経験し食事すらしようとしない朱棣しゅていに”勝敗は兵家の常だが、どんな結果でも平常心でいられる者はめったにおらぬ”という徐達じょたつの言葉を伝えた。

 

豪傑と言われた拡廓帖木児ココテムル沈児峪しんじよくでは徐達じょたつに全滅にさせられ敏敏帖木児ミンミンテムルを捕虜にとられた。

そこから拡廓帖木児ココテムルは再興したのだ。

えん軍は敗れたものの、全軍で北平ほくへいに戻り長江の北を自由に動ける。

恐れるものは何もないと言って、妙雲は朱棣しゅていを励ました。

 

料理の様子を見てくると言って外に出た妙雲は、ふらつき柱にもたれた。

以前から具合が悪かったが心配をかけないよう朱棣しゅていには隠している。

妙雲は密かに良い医者を探すよう命を出した。

 

挙兵して3年が経った。

しかし朝廷の根幹は揺らいでいない。

朱棣しゅていは次の一戦で決めようと決意した。

 

姚広孝ようこうこうは、出兵する朱棣しゅてい方考孺ほうこうじゅの命だけは取らないよう頼んだ。

方考孺ほうこうじゅは天下の読書人の模範である人物で、彼を誅殺すれば天下を治めるのに支障が出る。

朱棣しゅてい方考孺ほうこうじゅに生きる道を与えると約束した。

 

朱棣しゅてい館陶かんとうから山東さんとうに入ると、朝廷軍の主力とは戦わず東阿とうあ東平とうへい汶上ぶんじょうで連勝し軍糧や物資を奪った。

1月27日はい県で不戦勝、じょ州で勝利するとすぐ宿しゅく州を攻めた。

朝廷は燕軍が都に向かっているのだと気付いた。

 

3月14日、河の対戦で朝廷軍勝利。

今は雎水ひすいで両軍が対峙していた。

允炆いんぶん徐輝祖じょきそ雎水ひすいに派遣し、朝廷軍を率いる平安へいあん何福かふくの援護をさせた。

 

糧道を見破られないよう絶えず兵を出し交戦させ、えん軍に交戦だけに集中させようと主張する徐輝祖じょきそは、慎重に防御をかためたい何福かふくらと対立した。

允炆いんぶんは主将を置かなかったので、何福かふく徐輝祖じょきその2人が指揮官だった。

結局、允炆いんぶんの判断を仰ぐことになった。

 

糧道が断たれた朝廷軍は霊璧れいへきを死守すると、えん軍を突破し淮上わいじょうに向かおうとしていた。 

朝廷軍は卯の正刻(午前6~7時)に空砲3発を合図に出撃を決めた。

えん軍も卯の刻(午前6時ころ)空砲3発を合図に出撃を決めた。

 

卯の刻に空砲3発が鳴った。

朝廷軍の兵は出撃の合図が早まったのだと思い、大混乱のまま出陣し10万の軍が全軍壊滅した。

 

えん軍は鎮江ちんこうまで迫っていた。

その先には長江がある。

朝廷は盛庸せいように船を片付けさせ、右軍都督僉事せんじ陳瑄ちんせんに河を守るよう命じた。

 

斉泰せいたい黄湜こうしょく允炆いんぶんに逃げて復興を図るよう勧めた。

方考孺ほうこうじゅは、都で忠義の援軍を待ち戦うべきと主張した。

允炆いんぶん方考孺ほうこうじゅの案に乗り、斉泰せいたい黄湜こうしょくに都を出て援軍を連れてくるよう命じた。

 

”允炆いんぶん斉泰せいたい黄湜こうしょくを都から逃がした。削藩を決めたのは文官なのに戦となると兵士が命を差し出し、えん軍が迫ると文官は真っ先に逃げた。”

そんな噂が広まり、都から脱走する文官や兵士が後を絶たなかった。

 

李景隆りけいりゅうこく王と共に朱棣しゅていに投降した。

 

えん軍は都に入り、都は戦場となった。

徐輝祖じょきそは忠義の士を集めえん軍と刃を交えた。

 

増寿ぞうじゅは敵と内通した逆賊として捕らえられ、手続きも経ず允炆いんぶんに刺された。

允炆いんぶんは朝堂で刃を振るい、乱心したようであった。

 

都を制圧した朱棣しゅていは、各衙門を接収し、都に残った官吏を名簿に登記し、方考孺ほうこうじゅを生け捕りにするよう命を出した。

 

りょ太后と太后の侍女芙児ふじ、そして允炆いんぶんの遺体が見つかった。

 

朱棣しゅてい允炆いんぶんの亡骸に、「お前を助けたかった」と泣きながら語りかけた。

 

 

 

感想

 

進軍を開始して半年、朱棣しゅていは負けたのが初めてだったということで、大変な落ち込み様でしたが妙雲みょううんの内助の功で立ち直りました。

 

朱棣しゅていはずっと「我が軍は一戦も負けられぬのだ」と言っており、実際負けたことがありませんでした。

それなのに負けてしまいました。

そして20年の付き合いである朱能しゅのうも驚くほど落ち込んでしまいました。

けれど妙雲みょううんが、「我が軍は一戦も負けられぬのだ」なんて、誰が決めたの?と、負けたら終わりという思い込みを払しょくしてくれたのでした。

妙雲の存在の偉大さを感じました。

 

しかし妙雲みょううんの具合が悪いと発覚。

妙雲には1日でも長生きしてほしいです。

早く良いお医者さんを見つけてあげてー。

 

進軍開始してから3年後、朱棣しゅていは決意して南下しました。

 

 

河の対戦(宿しゅく州のあたり)でえん軍は負けたものの、霊璧れいへき垓下がいか)の戦いで完全勝利。

紀元前202年、垓下がいかで項羽率いる軍と劉邦率いる漢軍との戦いがあり、この戦いで項羽が亡くなったことで劉邦の勝利が決定し楚漢戦争が終結したそうです。(Wikipedia参照)

 

 

そんな因縁のある場所で、えん軍は勝利しました。

 

その勝因となったのは、えん軍と朝廷軍の出陣の合図が同じで、えん軍の方がちょっと早い時刻に進軍する予定となっていたから、というもの。

予定より早く進軍の合図が出たと勘違いした朝廷軍は大混乱になってそのまま破れてしまった。

10万の大軍が1晩で。

 

「こともあろうに、そんなことが。天は朕の味方をしてくれぬようだ」

允炆いんぶんは言っていました。

こんなの、天に見放されたと思ってしまっても仕方ない偶然ですよね。

 

允炆いんぶんは都で徹底抗戦を誓い黄湜こうしょく斉泰せいたいに援軍を呼びに行かせました。

しかしこのことが、黄湜こうしょく斉泰せいたいを逃がしたという噂に繋がってしまい、都からは文官も武官も逃げて行ってしまいました。

実はこういうのも燕軍の情報工作が功を奏していたりするのかな、と描かれない部分で活動してるだろう人に想いを馳せつつドラマを見ていました。

 

徐輝祖じょきそは皆が逃げ出した都に残り、えん軍と戦いました。

それなのに、允炆いんぶん増寿ぞうじゅを捕らえさせました。

 

増寿ぞうじゅは確かに妙雲みょううんに情報を流していました。

でも、今じゃなくても良くない?

今は徐輝祖じょきそが戦ってるんだから、今その弟を罰する必要なくない?

と見ていたら、増寿ぞうじゅが刺されました…。

 

允炆いんぶんはもう錯乱してしまっていたようでした。

 

本当は真の忠義の人なのに、最後まで徐輝祖じょきそを信じられなかったところに允炆いんぶんたちの敗因があったのかもしれないなぁ、と思いました。

 

どうやら允炆いんぶんはお母さんである呂氏とその侍女と一緒に死んでしまった様子(?)。

遺体を見ていないので信じられないのですが、自決してしまったんでしょうか?

 

朱棣しゅてい允炆いんぶんの亡骸らしきものに語り掛けているのが、周りに聞かせるためのパフォーマンスのように見えて にわかに信じがたいのですが、どうだろう!?

疑いの心を持ちつつ、次週を待ちたいと思います。