永楽帝~大明天下の輝き~ #41 永楽の光と影 あらすじ

 

 

 

李景隆りけいりゅうらは、朱棣しゅていに即位を促したが、朱棣しゅていは跡継ぎには才徳が必要だが、どちらも持たぬ自分には務まらぬと言った。

朱棣しゅてい允炆いんぶんが自死したのは奸臣のせいだとして、黄湜こうしょく斉泰せいたいらを捕らえるよう命じた。

 

朱棣しゅていは12名の宦官と113名の錦衣衛きんいえいを選び、允炆いんぶんを探させた。

官吏のうち、23名は帰順し430名は逃げた。

 

朱棣しゅてい夏原吉かげんきつに、四方の国を敬服させ使者を来朝させたいという展望を語った。

すると夏原吉かげんきつは、それでは煬帝と同じだと言って、国の現状を語った。

3年も続いた靖難せいなんの変で男たちがどれだけ死に土地が荒れたかを。

すると朱棣しゅていは微笑み、江南こうなんの水害の対処を夏原吉かげんきつに託した。

民に安らかな日が戻るまで、大規模な出兵や造営は行わないと朱棣しゅていは約束した。

 

朱棣しゅてい方考孺ほうこうじゅに即位の詔を書くよう命じたが、方考孺ほうこうじゅは”えん賊 簒逆す”と書いた。

1402年(建文けんぶん4年)6月、朱棣しゅてい黄湜こうしょく斉泰せいたい練子寧れんしねい方考孺ほうこうじゅとその家族を処刑した。

大勢の者が連座し、その家族は教坊司きょうぼうし送りになった(壬午殉難)。

 

朱棣しゅてい鉄鉉てつげんに帰順を促した。

簒逆の汚名を逃れるため、朱棣しゅてい興宗孝康こうそうこうこう皇帝(朱標しゅひょう)の帝号をはく奪しなければならない。

自分は興宗孝康こうそうこうこう皇帝に忠を尽くしたいと言って、鉄鉉てつげん朱棣しゅていの誘いを拒絶した。

朱棣しゅてい鉄鉉てつげんを流刑にしようとしたが、鉄鉉てつげんは死を望んだ。

鉄鉉てつげんは斬首となった。

 

徐輝祖じょきそは屋敷に幽閉された。

増寿ぞうじゅが死に、輝祖きそを幽閉された妙雲みょううんは、家を滅ぼす気かと泣き叫んだ。

朱棣しゅてい増寿ぞうじゅの子を厚遇することを約束し、妙雲みょううんをなだめた。

 

朱棣しゅていは年号を永楽と決め、宮中に向かった。

朱棣しゅていの行く手を楊子栄ようしえいが遮り「陵墓の参拝と即位、どちらを先になさいますか?」と尋ねた。

ハッとした朱棣しゅていは、楊子栄ようしえいに名を尋ね、陵墓に向かった。

 

朱棣しゅていは洪武帝の位牌に参拝すると東陵とうりょうに向かった。

興宗孝康こうそうこうこう皇帝の位牌に縋り付き、朱棣しゅていは「兄上が恋しい」「すまない」と言って泣いた。

 

1402年7月、朱棣しゅていは即位した。

世に名高い”永楽の盛世”の幕開けだった。

 

夏原吉かげんきつは12万の軍民を動員し、10か月で太湖たいこから海への道を開通させた。

そこに都からふみが届いた。

工事した河川沿いの県で2年間税を免除するという内容に、夏原吉かげんきつらは喜んだ。

文には、殿試でんしで有能な人材を見定めるため、都に戻るよう書かれていた。

 

夏原吉かげんきつの迎えに出た楊子栄ようしえいは、夏原吉かげんきつがいなかった間のことを報告した。

朱棣しゅていは即位後2か月で、解縉かいしん黄淮こうわい胡儼こげん胡広ここう楊士奇ようしき金幼孜きんようし楊子栄ようしえいの7名を文淵閣ぶんえんかくに配置し政務の諮問役にした。

以来、内閣は議論を担当し六部りくぶが事務を担う。

内閣の合議を経て上奏されたものを朱棣しゅていが決裁するという形が出来上がった。

 

朱棣しゅてい解縉かいしんに類書の編纂を命じ、永楽初の科挙では470名を及第させ読書人の心を慰めた。

朱棣しゅていは親王を移封し兵権を奪い政務に関わることを禁じた。

削藩だが、建文けんぶん帝より穏便な方法である。また北平を北京と改めた。

楊子栄ようしえいが名君を得たと喜ぶと、楊子栄ようしえい錦衣衛きんいえいのことを持ち出した。

 

巷では建文けんぶん帝が生きていると噂されており、錦衣衛きんいえいは捜索を続けている。

夏原吉かげんきつが諫言しなければならないと言うと、楊子栄ようしえいは繁栄の陰に問題があることを認め解縉かいしんから伝言があると話した。

 

夏原吉かげんきつ朱棣しゅていに会いに行ったが、漠北ばくほくで問題が起き緊急会議中で会えなかった。

朱能しゅのうせい国公になっていた。

 

 

 

感想

 

やっぱり允炆いんぶんは亡くなっていませんでした。

朱棣しゅてい錦衣衛きんいえいや宦官を動員して允炆いんぶんを捜させていますが、2年経っても見つかっていません。

 

錦衣衛きんいえいだけでなく、なぜ宦官も動員されたんだろう?

と不思議に思いましたが、きっと写真もネットもない時代なので、皇帝のご尊顔を知っている人が少なく、顔を確認するために1組に1人顔を知る宦官が同行しているのだと思われます。

この時代なら、元皇帝も服を着替えれば簡単に人混みに紛れられそうですね。

広く人口も多い中国で、捜索は難しそうです。

 

姚広孝ようこうこうの望みを受けて、朱棣しゅてい方考孺ほうこうじゅを生かそうとしましたが、方考孺ほうこうじゅは望みませんでした。

 

そして鉄鉉てつげんも生きることを望まず赤ちゃん泣き

「大明皇妃」というドラマ(靖難せいなんの変の最終局面からドラマがスタートします)を見ていた時、鉄鉉てつげんが靖難の変で殉難したという一文がありました。

 

 

 

 

 

その時すでに「永楽帝」を見始め、鉄鉉てつげんを推し始めていた私は酷いショックを受けました。

 

けれど、「大明皇妃」では”鉄鉉てつげん将軍”となっていました。

そして「永楽帝」の鉄鉉てつげんは軍人ではない。

だから、”鉄鉉てつげんという名は、中国ではありがちな名前で武官にも同姓同名の人がいるに違いない、処刑された鉄鉉てつげんは私の知っている鉄鉉てつげんとは違う人に違いない”と自分に言い聞かせて「永楽帝」を見続けました。

 

そうしたら、鉄鉉てつげん済南さいなん城の守将になってしまいました。(38話)

あの時、絶望しました。

これで鉄鉉てつげんが将軍と表現されてしまってもおかしくない状況になったからです。

 

それでも諦めず、このドラマでは生かされるかもしれないと望みを捨てずにいましたが…えーん

 

鉄鉉てつげんは、亡き太子(朱標しゅひょう)に忠誠を誓ってたんだと最後に知って、全部納得できました。

鳳陽ほうようで起きていることを告発するため、命懸けで都を目指した鉄鉉てつげんが、無事に都につけたのは姚広孝ようこうこう朱棣しゅていのおかげでした。

太子は鉄鉉てつげんの告発を受け、身を守りました。(6話)

 

当時皇子にすぎなかった朱棣しゅていに大した力はなく、鉄鉉てつげんを本当に守ったのは太子です。

だから鉄鉉てつげんにとっての最も偉大な命の恩人は、姚広孝ようこうこうでも朱棣しゅていでもなく確かに太子なのだと思います。

だから鉄鉉てつげんは、興宗孝康こうそうこうこう皇帝の血筋に忠誠を誓った。

悲しいけれど、話を聞いて受け入れることができました。

 

そして、徐家の現状に取り乱した妙雲みょううんを見て、ますます妙雲みょううんのことが好きになりました。

 

もともと永楽帝を見ようと思ったのは、「尚食」というドラマを見て、永楽帝の皇后(妙雲)は自ら剣を取り戦った無私無欲の愛され女子だと聞き興味を持ったからでした。

 

 

 

 

「尚食」に永楽帝の皇后は出てこなかったので、当時は想像するしかなく、”感情のない戦神のような女性なのかな”なんて想像していたのですが、「永楽帝」で描かれた妙雲みょううんは想像とは違っていました。

 

すごく賢くて、夫のためにできることをした。

「剣を取り戦った」というエピソードは、北平ほくへい城の攻城戦の際のことが語り継がれただけだと思いました。(37話)

増寿ぞうじゅが亡くなり、徐輝祖じょきそが幽閉となった妙雲みょううんが「何が望み?私の家を滅ぼしたら気が済むわけ?」と癇癪を起した場面を見て、賢く夫を支え続けた妙雲が心の中に押さえ続けていた感情を知りグッときました。

人間らしい部分を見て、より好きになりました。

 

楊子栄ようしえいは、繁栄の陰に問題があると言って解縉かいしんからの伝言があると夏原吉かげんきつに言いましたが、肝心の伝言の中身を教えてくれませんでした。

 

次回、その内容が分かるでしょうか。

漠北ばくほくがきな臭くなってきたようですし、色々大変そうです。