永楽帝~大明天下の輝き~ #34 新政の始まり あらすじ
朱棣は高熾らを呼び、都に弔問するため徐輝祖と共に旅立つよう命じた。
姚広孝は允炆が即位後したことに目を通した。
允炆は懿文太子と諡号されている亡き父に興宗孝康皇帝と追号を贈った。
そして黄湜と斉泰を国事に参与させた。
亡き皇帝は丞相を置いてはならないと厳命していた。
丞相という名は使っていないが、「国事に参与させる」というのはそれに類似する。
1月足らずで政を根本から覆す気なのかと朱棣は案じた。
姚広孝は、意のままに動く臣下が欲しいだけだろうと朱棣をなだめた。
建文という年号を定めたと聞いた姚広孝は、後継の君が文を旨とする政治を行うことは決して間違っていないと話した。
先帝の遺詔には、”諸王は封地にとどまり上京せぬこと、諸王の封地の文武官吏は朝廷の指揮統括に従い護衛のみ諸王の指揮に従うべし”と書かれていた。
朱棣は、これは遺詔ではないと言ったが、姚広孝は諸王は標的にされ危険が迫っているのだから悲しみから立ち直るようにと説得した。
方考孺は権力を集中させるため削藩を行うよう奏上した。
允炆は周王(朱元璋の5男)を捕らえた。
朱棣は祖宗の心を体現した寛大な処置を求める奏状を届けさせた。
允炆はさらに先帝の代に不法な行いのあった斉王、代王、岷王を捕らえた。
宝鈔乱発の罪を問われた朱柏は自害した。
朱柏のことを聞いた朱棣は血を吐き発病(錯乱?)した。
5人の親王を立て続けに捕らえたことで朱柏と燕王の境遇に憤る者も多かった。
真っ先に燕王を削藩すべきだったが、今後は軽挙妄動は慎まねばならないと斉泰は黄湜に話した。
鉄鉉は、諸王を訪問すること、諸王の内 賢者には褒章を授けること、法を犯した王も2回までは許すことを上奏した。
すると次々賛同する者が現れた。
允炆は削藩を継続するため朱棣の肩を持った盛庸を左遷し、鉄鉉を昇進の名目で都から出した。
謝貴と張昺が朱棣の様子を探りにやって来た。
燕王府では武器を製造しているがが、100匹以上いる鵞鳥のおかげでカモフラージュできた。
病のフリをしている朱棣に代わり、妙雲が朱棣の病状を謝貴たちに報告した。
そして3人の息子たちを返して欲しいという奏状を託した。
鉄鉉は朱棣を南昌に移封するよう上奏した。
感想
允炆が即位したばかりなのに、情勢はかなり緊迫してしまいました。
文治のためには権力を集中させることが重要と考えた允炆派は、削藩のため罪を犯したことのある諸王を捕らえ始めました。
先帝の代には22人の親王が就藩していたそうです。
22人も息子が。素直にすごい!
徐輝祖は削藩に反対しようとしましたが、允炆はもう削藩することを決めていました。
すぐに5人の王が被害に遭いました。
允炆は朱柏を殺すつもりはありませんでしたが、朱柏は火をつけて自害してしまい、そのことには允炆も悲しんでいました。
策略が自分の思惑通りに進むとは限らない、ということを身をもって允炆は知ったのかもしれません。
ちょっとだけ今の視点から気になったのは、恐らくすでに1度罪に問われただろう彼らを、どんな根拠で允炆は捕らえたのか、ということです。
現代だったら憲法39条が「同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」と規定しています。
なので今回捕らえられた親王たちが、先帝の代に犯した不法行為によってすでに罰を受けているなら、もうそのことを蒸し返して罰することは現代ではできないように思いました。
きっとそんなのは、この当時は関係なかったのでしょうし、もしかしたら彼らは罰を受けていないのかもしれません。
一事不再理の歴史もいつか調べてみたいです。
周王斉王、代王、岷王の処罰は、人々が納得しました。
けれど朱柏が自害し朱棣が病になったことで中には允炆に批判的になる人々が現れました。
今後は慎まなければならない、だから燕王を最初に捕らえておけばよかったんだ、と斉泰が言っていたのが印象深かったです。
燕王を最初に処罰していたら、朱柏が自害していなかったら、と、ここにも歴史の分岐点がありそうな気がして、妄想が膨らみました。
朱柏が亡くなったと聞いた朱棣は怒りのあまり血を吐き、錯乱した様子で街に現れました。
2人は大の仲良しでしたし視聴者にとっても柏は他の弟たちと違ってよく出てきていたので愛着を持っています。
妙雲との結婚が嫌で逃げ出した時も、柏に手伝わせていたのをよく覚えています(2話)。
あんな最期を迎えるとは思っていなかったので悲しかったです。
朱棣は病と都には伝わりましたが、どうやら仮病のようです。
病を装いながら武器の製造をしているらしい朱棣。
一体何を考えているのか。
高熾たちは戻ってこられるのか。
来週が楽しみです。