永楽帝~大明天下の輝き~ #33 切なる願い あらすじ
朱棣は高熾から子に名前を付けるよう頼まれた。
皇帝は高熾が生まれた時、朱棣の子孫を20代先まで名付け、一覧を渡していた。
そのことを思い出し、朱棣は子に朱瞻基と名付けた。
皇帝は允炆に、あと数年したら瞻基や晋王の子美圭を都に呼び寄せ允炆の子文奎と共に学ばせたいと話した。
共に育てば、彼らの父たちのように協力し合えるだろうからと。
允炆は方考孺を師として推薦した。
方考孺は南部の寧海出身であり、※南北榜事案以来 朱家が科挙で北をひいきしているという噂を払しょくできると允炆が言うと、皇帝は受け入れた。
(※南北榜事案 1397年の人事リスト(?)に北部の候補生が1人もいなかったという事件があった。それを知った皇帝が個人的な試験を主宰し、それに受かったのが全員北部人だったという事件。)
皇帝の処方箋を見た姚広孝は、皇帝の先が短いことを朱棣に伝えた。
朱棣は都に会いに行きたがったが、姚広孝は 行けば二度と北平に帰ってこられないと言って止めた。
晋王から使いが来て、朱棣は会いに行くことにした。
親王の私的な面会は禁止されているが朱棣は恐れないという。
朱棣が北平を出ると、すぐに允炆の間者がそのことを報告した。
面会してみると、晋王は病で余命いくばくもない状態だった。
晋王は譚淵をはじめとする錦衣衛出身の者たちを朱棣の配下にするよう言った。
彼らのことは、すでに死亡したと兵部に届け出てある。
亡き太子朱標は丸をつけて3人の弟たちに明を託した。
秦王が亡くなり自分も世を去ろうとしている今、朱棣が明を守るのだと晋王は話した。
都に晋王と朱棣が密会したとの報告が届いた。
斉泰は病の晋王の処罰は後回しにし、朱棣の燕王位をはく奪し夫妻を都に住まわせ高熾を新燕王にするよう奏上した。
皇帝がその通り詔を発しようとしたとき、晋王の訃報が届いた。
皇帝は詔を燃やし、朱棣への処罰を天に託した。
倒れた皇帝は、政を允炆に託した。
允炆は文華殿、乾清宮と春和宮の禁衛を盛庸に任せ、都の防衛を徐輝祖と李景隆に任せた。
皇帝は伯雅倫海別を漠北に帰すこと、叔父たちを困らせないことなどを允炆に命じると、息子にもう一度会いたかったと言って亡くなった。
享年71歳。1398年5月10日のことだった。
允炆は16日に建文帝として即位した。
朱棣は都に向かったが、徐輝祖が帰るよう言いに来た。
国葬の際には諸王は封地に留まれというのが先帝の遺詔であり、17日に埋葬も済ませたと聞いた朱棣は憤りつつも北平に帰ろうとした。
徐輝祖は朱棣を引き止め、高熾・高煦・朱高燧に代わりに弔問させるよう言った。
感想
生まれた子は男の子で、瞻基と名付けられました。
おめでとうございます!
高熾が生まれた時、皇帝が子孫にまで名付けてくれていたことを思い出し、朱棣がつけた名前でした。
高熾が生まれたのは14話のことでした。
あの時はまだ朱棣は都で暮らしていて、皇帝は礼儀に反するけれど孫に会いたくてたまらなくて太子を連れて訪ねてきてました。
懐かしい!
あの頃からドラマの中では20年くらいたち、リアルでは2か月以上経過しました。
うわぁ懐かしい。
2か月よりももっと時間が経っているように感じます。
子供たちの先生を誰にするか話し合っていた時、「南北榜事案」というのが允炆の話に出てきました。
調べてみたのですが、ネットだと中国語のサイトしか出てきませんでした。
グーグル先生に自動翻訳をしてもらって読んだ感じ、人事か科挙で南をひいきした事件が発覚し、それに激怒した皇帝が北をひいきした、という事件があったらしいです。
間違っているかもしれません。
どうやら妙雲は都にいた時(2年前)色々工作を行っていたみたいで、その時行った工作の1つが晋王と連絡を取ることだったみたいです。
妙雲は事が露見しても朱棣に累が及ばないよう、決して朱棣の名を手紙に書かなかったみたいで、賢妻ぶりがうかがわれました。
自分の命のともし火が消えそうなことを感じた晋王は、朱棣と密会し錦衣衛の者達と明、そして自分の子供たちを朱棣に託しました。
前回皇帝は錦衣衛を解体し、錦衣衛の千戸以上の兵は晋王府に組み込んでいました。
晋王は自分の所で引き受けることになった譚淵たちが死んだと都に報告し、朱棣に託しました。
晋王は、亡き太子から自分達3人が明を託されたという自負があり、今の状況には不満があったんでしょう。
秦王も亡くなり、もうすぐ自分もいなくなる。
3人で託されたけれど自分はもう頑張れない、だから朱棣に明を託そうと、禁を破って面会したようです。
2人はあまり仲が良くなかったみたいですが、最期の最期に頼ったのは朱棣だったということは、気に食わない奴だと思ってけれど朱棣のことを認めている、ということなんだろうなと思いました。
最後に兄弟が分かり合えたのは良かったです。
皇帝がお亡くなりになりました。
享年71歳。
これまでに亡くなった方たちからすると長生きですが、それでも今の感覚からすると若い。
誰が亡くなっても悲しいですが、若い方が亡くなるのは本当に悲しいです。
皇帝があと10年生きていたら、その後の歴史はだいぶ変わっていたんじゃないかと想像してしまいました。
倒れた皇帝に政を託された允炆が最初にしたのが、宮廷や都の警備を自分の息のかかった者達に代えさせたことだったのが、ドンパチやる気満々に見えてちょっと怖かったです。
もしかしたら、平和な時でも政権交代したらそうするのが当たり前なのかもしれませんが、今の状況が緊迫しているので余計怖く思ってしまいました。
前回藍玉を始末したい允炆は、あえて藍玉の助命を一生懸命皇帝に嘆願することで藍玉を始末する決意を皇帝にさせました。
あの件があった後なので、晋王と密会した朱棣の処分について皇帝に表情を窺がわれた允炆が、可愛い顔で首を横に振っていたのも朱棣を処罰させたいからなんだろうなぁと勘繰ってしまいました。
皇帝が出していない遺詔により、北平に帰るよう言われた朱棣。
朱棣は北平から出てはいけないけれど、3人の子供たちは都へ弔問に来るようにと徐輝祖は言いました。
これは人質でしょうか?
建文帝がどんな策を弄するのか、怖くもあり楽しみでもあります。
でもやっぱり怖いかも。
先行きが不安です。