目的本位というのは、自己実現への欲求と考えられており、それは豊かな人間性を形成し、ありのままの姿を目指すことにある。マズローは、そのような人物を「創造的人間」と称しており、何ものにもとらわれず、自身の考えを実行し、自由に行動できるもの指す。ただ、目的本位に行動するためには、少なからず、好奇心を持って、自発的に行動していくことが求められる。しかし、自発的な営みには個体差があり、人によって向き不向きがあるかと思う。自発性は、「経験への開放性」というパーソナリティーの一つだと考えられており、性格の特性として、新しいことに挑戦する意欲が高い人を指す。そのため、自発的に行動したり、創造的な経験を求める傾向にあるとされている。
個人に備わっているパーソナリティーは、遺伝による生得的なものと、環境による後天的なものとの相互作用によって形成されることは分かっており、目的本位に行動し、その経験を蓄積していくことで、人格形成(パーソナリティー)に変化をもたらす可能性は多分にある。そのため、「経験への開放性」が低い場合でも、本人の意志次第で行動を起こしていくことは十分可能である。パーソナリティーをドラスティックに変えることは難しいが、まずできることは自身の資質を理解し、自身のパーソナリティーを受け入れることである。そして、本来的な欲求を抑圧せず、「あるがまま」に行動していくことである。
しかし、頭では分かっていても、それを行動に移すことはとてもむずかしい。それは、将来起こりうるべきことを正確に予想することは難しく、目的を達成できるか正しく判断できないからである。そのため、目的本位に行動するためには、その不確実性を許容する必要がある。それはつまり、失敗する可能性を覚悟のうえで、勇気をもって試みるしかないということである。それは自身の可能性に賭けることであり、危険性の伴うチャレンジである。
それでも選択していかなければならない
私たちは、日常生活の中で、常に何らかの選択をし、行動している。それは無意識に選択している場合もあれば、意識して選択している場合もあるだろう。人生を左右するような大きな決断を伴う選択をする場合もある。決断するということは、一つの選択と引き換えに、複数の選択を断念するというトレードオフである。そのような選択には、少なからず、責任が生じることになる。ここでいう責任とは、それを選択した人が引き受けなければならない応答する義務である。
決断にはリスクが伴う。どんなに思考を巡らせ、結果を計算したとしても、思い通りにならない場合があるからだ。それはこの世界が偶然性と不可分であり、突き詰めたところで、最終的な結論は偶然性に委ねるしかないからだ。そのような決断を伴う選択はギャンブルであり、賭けである。それを選択してしまったことで、最悪な人生が待ち受けているかもしれない。しかし、それでも、どのような結果になろうともその結果を引き受けて、歩んでいくしかない。
そして決断に至るまでのプロセスには飛躍が伴うだろう。その飛躍を許容するのは、感情の高まりによって生じる勇気や自信、そして享楽だと考えられている。はたまた病的な衝動の可能性もあるだろう。理性で結果を予測しようとも限界があるため、最終的な結論に至るためには、そのような感情の高まりに身を委ねるしかない。しかし、感情自体をコントロールすることは難しく、どちらかというと感情自体も偶発的な側面が強いように思う。ゆえに、繰り返すが、最終的に、私たちは偶然性に身を委ねるしかないのである。
繰り返すが、目的本位に行動するためには、決断が必要である。そして、決断にはリスクが伴い、予測不可能な危険が伴う。思い通りにならない可能性が多分にある。偶然性を受け入れ、それでも目的本位に行動し、賭けていくとはどういうことか。あらゆる哲学者はそのことについて考えてきた。そこで、ハイデガーの「被投的投企」という概念を参照したいと思う。それは偶然性と不可分な関係にあり、私たちに新しい視座をを与えてくれるだろう。まず、「被投的投企」について見ていきたいと思う。
被投的投企
「被投的投企」とは、「被投性」という形で生を受けた人間は、常に自己の可能性に向かって開けれている存在であり、その可能性に向かって超え出ようとすること(投企)を意味する。私たちは、自らの意志で選択し、この世界に生まれたわけではない。たまたま、この世界に投げ落とされた偶然的な存在である。そして、それを自覚した人間は、自らの可能性に向かって投げ企てることで、自己実現を目指すようになると考えられている。
ハイデガーは、時間という観点から人間という存在を考察し、人間の固有のあり方を、自己の存在を時間として展開し、「時間性」に置き換えて考察した。それは、人間は生まれてから死ぬまでの限られてた時間の中を生きる存在であり、現在という視点から過去や未来を開示することで時間を生み出すことを可能としているからだ。「将来」「既在」「現在」という時間を統一的に自覚し、自己を現にそこにあるものとして考える。そして、そのようなあり方を「現存在」と称して人間を定義している。
ハイデガーは、「不安」という感情をベースに存在とは何かを考えることで、現存在のあり方を考えた。それは、自らの死を意識することで、先駆的に死を覚悟し、それ自体と向き合うことで決意を持って生きていくことができると考えたからだ。ハイデガーは、そのようなあり方を「先駆的決意性」と呼んでいる。私たちは、普段の生活の中で死を意識することはめったにない。同じような日常を繰り返し、無限ループの中を生きているようなものである。「先駆的決意性」は、そのような日常を一変させる効果がある。つまり、自らの死を意識することで、現在から未来への時間が有限化され、その限られた時間を自覚することで、生命がいきいきと輝きだす効果があるからである。そうすることで、人生の掛け替えのなさを自覚し、自己の可能性に向かって投企することができるということである。
つまり、「先駆的決意性」は、人が何かをする際のモチベーションを与える役割があるということである。それによって行動を起こすことができれば、少なからず前進したように思われるが、しかし、それはそのような状況に追い込むことで、自発性を促しているだけなのではないだろうか。つまり、そのような「投企」への導き方は、その選択を肯定することを強制しているだけだと考えられるのである。死への奴隷となり、「とらわれ」の中で何かを選択することは、ある種の抑圧と私は同じように思えてならない。
偶然性について
他方、九鬼周造は、ハイデガーの時間性に着目し、「現在」を主題として偶然性について考えた哲学者である。どういうことか。偶然性とは、予期し得ないことが起こる現象である。たまたま存在した現象にすぎず、何らかの条件が重なったことで「ありえた出来事」である。九鬼周造は、偶然性を「有と無の接触面」と考え、「有に食い入っている無」と説明するが、本来的に偶然性は実態として存在しているわけではなく、私たちが認識することで生じた現象にすぎない。
そこで、九鬼周造は、「驚き」という感情に着目し、その観点から偶然性を捉えようと試みている。「驚き」は、想定外の出来事が起きた場合に受ける強い感情である。私たちは、未知の出来事に対して、恐怖や不安感を覚える場合が多々あるが、他方、それによって知的好奇心が刺激される場合も多分にある。それは、本質的に人間は、分からない物事に対して、その意味や理由を知りたいという欲求が働くからである。九鬼周造は、「現在の「今」現象した離接肢の現実性の背景に無を目睹して驚異するのが偶然である」と説明するように、「現在」において現実化された現象に、「驚き」という情動を介することで、「偶然性」として認識されるということである。そこから分かるように、「偶然性」は、時間の流れの中で、過去と未来を切断することで、出来事が主題化され、現象として生じるのである。
可能性の時間性が未来であり、必然性の時間性が過去であるに反して、偶然性の時間性は「いま」を図式とする現在である。いったい、未来的の可能は現実を通して過去的の必然性へ推移する。可能は、大なる可能性から不可能性に接する極微の可能性に至るまで、可能の可能性によって現実と成る。現実は必然へ展開する。そうして一般に、可能が現実面へ出遇う場合が広義の偶然である。可能性の大きいものでも現実面へ出遇う限りにおいて多少とも偶然の性格をとってくる。なお、勝義の偶然とは特に最小の可能性が、もしくは不可能性が、現実面へ出遇う場合にほかならない。そうして現実性が時間的には現在を意味する限り、偶然性の時間性も現在でなければならない。
九鬼周造は、可能性の時間性をハイデガーから影響を受け、必然性の時間性をベルクソンから影響を受けている。未来を「そうなりうる」可能性の様相として考え、過去を「そうならざるおえない」必然性の様相として考えている。つまり、現在に起こりうることは、過去の経験から未来の可能性を予測することはできるが、他方、「可能は、大なる可能性から不可能性に接する極微の可能性に至るまで、可能の可能性によって現実と成る」と、九鬼周造が指摘するように、予測不可能な出来事が現実化される場合もある。さらに、「勝義の偶然とは特に最小の可能性が、もしくは不可能性が、現実面へ出遇う場合にほかならない」と記されているように、不可能性から生じた偶然性に九鬼周造は着目している。
九鬼周造の研究者である宮野真生子は「実存の可能性とは未来からやってくるのではなく、むしろ、現実の手前に潜在している可能性と不可能性の同性のなかで、いま偶然を通って産み落とされたと考えるべきではないか。だからこそ、未来へ向けて可能性を選択するためには、いま直面する偶然性からはじめるしかない」と説明している。宮野真生子は、可能性に注視だけではなく、「いま」この瞬間に直面する偶然性と向き合う必要を説く。私たちは、過去の経験から想定できるものを予測し、未来について可能な限り考えるだろう。そして、何かを選択するような場合はなおさらである。しかし、宮野真紀子は、そうであったとしても、想定することすらできない不確かな偶然性を重要と考える。
現在という利那において生成する偶然は、まさにその瞬間に創造されるものゆえ、人間の意味づけが届かないものである。過去と未来は、人間による意味を含んだものという意味で直接の経験ではなく間接的に「斜視」されるものであり、現在だけが直接に経験される、「正視」されるものなのである。この「直接」とは、自己の内的な直観という意味ではない点に注意してほしい。それは、人間の手が届かない生成の利那というむき出しの事実によって自己の意味づけが壊されるという経験であり、他なるものとの遭遇することによって引き起こされる純粋な触発のことである。
過去と未来はすでに意味づけされたものである。それは「現在」という時間性を起点にして考えられたものである。現在は、今この瞬間に生じたゆえ、何者でもない時間として存在している。「人間の手が届かない生成の利那というむき出しの事実」と説明されているように、偶然性は、これまでの経験では容易に理解できないような出来事であり、それゆえ、自己の同一性を不安定(宮野真紀子は破壊と称する)にさせる。そして、その純粋な触発を経験したからこそ、自身の想定することのない自己を獲得することができるということである。
では、「偶然性」は、「投企」に対してどのような関わりを持つのだろうか。宮野真生子は、次のように説明する。
九鬼は、「他でもありえたにもかかわらずこのようにある」という虚無に晒されながら成立する偶然性こそが、個体の起源であり、根源的社会性の始まる地点であると考えた。なぜなら、偶然性において互いの存在の交換可能性を知ることが同時に互いの存在の有り難さを開示するからである。
偶然性は現在においてたまたま生じた出来事であるが、それは他の様相が生じた可能性を示唆する。つまり、偶然性は無数の可能性の中から現実化した掛け替えのないものであるが、それと同時にその掛け替えのなさを支えるのは、「現実化しなかった無数の可能性」ということである。そして、私たちは、現実化したものだけを自己の内に引き受けるのではなく、現実化しなかったあり得た可能性すらも自己の内に引き受けることで、私たちは存在の有り難さを開示できるということである。宮野真紀子が指摘するように、「他でもありえたにもかかわらずこのようにある」という思弁的に内省することで、新しい自己を開示していくことができるということである。
ポールの変容的経験について
宮野真生子は、アメリカの哲学者L.A. ポールの「変容的経験を伴う選択」の考え方に着目する。ポールは、実存的な問いを分析哲学の視点から考察し、選択することによって自己が変容することを肯定的に考察した。宮野真生子は以下のように説明する。
選択において決断されるのは、当該の事柄ではなく不確定性/偶然性を含んだ事柄に対応する自己の生き方であるということ。〇〇な人だから△△を選ぶ、のではなく、△△を選ぶことで自分が〇〇な人であることが明らかになる。つまり、私たちは選択し決断することで、はじめて自己に気づくのである。
私という変わらない主体を守るために主我性が発動し権力意志で他を押しのけ、選択するのではない。選択するなかで、自己が何を求め、どういう人間なのかを知り、その発見から自分の人生を形作っていく。こうやって自己の人生を打ち立てていくことは、権力意志の主我性と呼ぶべきものだろうか。少なくともそこに「自己同一の必然」と呼ばれるものは前提されていない。
冒頭に、目的本位の作用について考えたが、それはポールの「変容的経験を伴う選択」の考え方に符合する。目的本位に行動するということは、不確実な物事を受け入れ、偶然性を含んだ事柄に対応することで、新たな自己の可能性に気づくということである。「選択するまでのプロセス」から、「選択後のプロセス」を含めて、「変容的経験のプロセス」だといえるだろう。
すべてが想定できる世界では、経験から予測できる範囲の変化しか起こらない。それを否定するつもりはないし、予定調和であったとしても、なんら問題ないだろう。しかし、偶然性が伴う選択は、自身が想定できないような自己を創出していくことであり、マズローが称する創造的人間となりうるのである。
「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛している」
目的本位に行動することで、これまでの自分とは異なる状態へ変化する可能性がある。しかし、行動することには、とてつもない勇気が必要な場合がある。九鬼周造は運命について、「情熱的自覚をもって自己を偶然性の中に沈没し、それによって自己を原本的に活かす如きものでなければならぬ」と記している。情熱的自覚については、ハイデガーの「先駆的決意性」を参照し、九鬼周造の「偶然性」を参照した。
しかし、そのような情熱的な自覚すら飛び越えて、私たちは衝動的に行動する場合がある。「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛している」 この言葉は、小山田咲子のブログを書籍化したタイトルである。私はこの言葉が大好きで、答えが出せないとき、行動しなければならないとき、決まってこの言葉を思い出す。
思い切って飛び込んだとしても、どうなるかわからない。強い自覚なのか、享楽に身を委ねたのか、それは状況によって異なるかと思うが、その動機はどうであれば、どうにでもなれと、破壊的な衝動に身を委ねる場合がある。その一瞬に投企する営みを肯定し、受け入れること。そして、それに対して愛おしくさえ思えること。
この言葉には、投企した後の行動をいかに受け入れるかということの重要性を考えさせられる。飛び越えるまでの勇気も大切だけれど、飛び越えた後、それをいかに肯定し、その行いをどのように評価するか。偶然性(=基礎付けられてないもの)を基礎づけることにより、基礎づけられたもの(=必然性)へと変える営みが、内面化するということなのではないだろうか。そしてそれが、ニーチェの考える「運命愛」であり、偶然性の一回性を肯定し続けることに他ならない。「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛している」 という言葉の強度は、あらゆる不安に苛まれる私を肯定し、行動へと導いてくれる指針を与えてくれる。
情熱的自覚によって裏付けされた営みも重要であるが、すべてを投げ出して、享楽に身を投げる「いき」な行いも、本来的な人間らしさではないだろうか。