センテンスサワー

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私は今年の春に35歳になった。35歳という年齢は、人生の折り返し地点だと考えられることがある。村上春樹の「プールサイド」という短編では、35歳という年齢は人生の折り返し地点と考えられ、「35歳問題」として考察された。他にも、ダンテの「神曲」の主人公は35歳で古代ローマの詩人と邂逅し、彼に導かれて地獄、煉獄、天国と彼岸の国を遍歴することになる。また、哲学者のショーペンハウアーは、36歳を境に老いを感じはじめることになり、これからの生き方について考えていかなければならないと説教臭いことを述べている。

 

現在の寿命という観点から考えると35歳という年齢を人生の折り返し地点とするのは少し早いような気もするが、プールサイドの主人公がその年齢になったときに折り返し地点として確信したというのは、肌感覚では私自身も共感はできる。東浩紀は『クォンタム・ファミリーズ』の中で「35歳問題」について取り上げ、以下のように考察している。

 

ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば、別の職業を選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。そして、その両者のバランスは、おそらく三十五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。

 

私たちは、この世界に投げ落とされたときから、あらゆる可能性に開かれている。そして、その可能性に開かれた様々な分岐点に立ち、そのたびに人生の選択をしながら生きていくことになる。しかし、年齢を重ねていくことで、可能性は縮減されていき、仮定法過去の「ありえることのなかった現実」が増大することになる。そして、双方の総量が逆転する年齢が35歳だと東は指摘している。選ばれることのなかった選択肢は仮定法過去の亡霊として私たちを苦しめることになる。

 

「プールサイド」の主人公は、幸せな人生を送っているように感じられるが、「にもかかわらず」憂鬱だと本人が感じるのは、その亡霊が背後から忍び寄ってきて、「タラレバのありえなかった現実」を想起させるよう囁くからである。もしあのときこうしていれば。なぜ、あのような選択をしてしまったのか。

 

その亡霊は、選択されることのなかった過去の自分自身の振る舞いである。彼らは永遠に交わることはないが、可能性とその選択肢の数だけ、徐々に増えていくことになる。私を含めて大多数の人は、「プールサイド」の主人公のように、「仮定法過去の亡霊」に「とらわれ」てしまうことになるのだろうが、これまでの連載でその処方箋について考えてきた。それは「現実化しなかった無数の可能性」を受け入れ、内面化することである。私たちは、現実化したものだけを自己の内に引き受けるのではなく、現実化しなかったあり得た可能性すらも自己の内に引き受けることで、私たちは存在の有り難さを感じることができるのである。宮野真紀子が指摘するように、「他でもありえたにもかかわらずこのようにある」という思弁的に内省することで、仮定法過去の亡霊にとらわれることなく、新しい自己の可能性を開示してくことができるのである。

 

 

強い偶然性(弱い必然性)から、弱い偶然性(強い必然性)へ

私たちは、「被投性」という形で偶然的に生を受け、「偶然的存在」として生きていくことになる。そして、生きながらえながらこの世にとどまり、いずれ死ぬことになる。私たちがこの世界に誕生する根拠は、現時点では何一つ分かっていない。確率的にも天文学的数字になるだろうし、確率にすら置き換えることができない「一回性」の出来事として、たまたま生じたにすぎない。それはあまりにも「強い偶然性」と呼べるだろう。根拠付などできない一回性としての奇跡である。そして、私たちはいずれ死ぬ。これは現時点で分かりきっている事実であり、限りなく必然性(強い必然性)に近いものである。生きるというのは、その両極端な一回性の間を、偶然性によって翻弄されながら、はたまた必然性にがんじがらめにとらわれながら、やり過ごしていくことである。

 

私たちは、この世界ではあまにも弱い存在でしかない。この世界は思い通りにいかないことばかりで不自由であり、偶然的な意味でも、必然的な意味でも、どうすることもできない無力な存在である。しかし、少なからず、目的本位に行動していくことで、偶然的な存在として生きていくことができる。それは「弱い偶然性」なのかもしれないが、少なからず「被投的投企」に生きることができる可能性に秘められているだろう。

 

 

カート・ヴォネガットの作品に『スローターハウス5』というSF小説がある。ヴォネガットの第二次世界大戦の経験をもとに「生きることの不条理」を主題とした作品である。主人公のオフィスの壁に彼の生活信条の祈りの言葉が飾ってあるのだが、その言葉は私たちに新たな視座を与えてくれるように思う。

 

神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を
受けいれる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とを
さずけたまえ

 

この言葉は、アメリカの神学者の言葉が引用元とされている。私たちは、あらゆる経験を積んだとしても、双方の違いを容易に見分けることができないだろう。それがあまりにも困難なため、ショーペンハウアーは「生きんとする意志」を否定することを主張し、他方、ニーチェは、「力への意志」を肯定し、活動能力の増大を主張した。この言葉は第三の道として、まず、双方の違いを見分けることの重要性を説く。端からあきらめるのではなく、生の欲望に従うのでもなく、まず、双方が変更可能な事柄か否かを見極めることからはじめるということである。

 

そして、「変えることができる物事を変える選択をしなかった」ことを受け入れ、「変えることのできない物事を変えようとしつづける」ことをあきらめる勇気も併せて必要なのではないだろうか。「仮定法過去の亡霊」にとらわれたり、「現在進行系のゾンビ」と化したり、35歳以降、私たちは不条理な現実に直面しつづけることになるだろうが、だとしても「一回性の連続」としての人生を生きていくことの「掛け替えのなさ」を実感することでしか、生きる意味を見出すことができないのではないだろうか。そういうもんだ。

 目的本位というのは、自己実現への欲求と考えられており、それは豊かな人間性を形成し、ありのままの姿を目指すことにある。マズローは、そのような人物を「創造的人間」と称しており、何ものにもとらわれず、自身の考えを実行し、自由に行動できるもの指す。ただ、目的本位に行動するためには、少なからず、好奇心を持って、自発的に行動していくことが求められる。しかし、自発的な営みには個体差があり、人によって向き不向きがあるかと思う。自発性は、「経験への開放性」というパーソナリティーの一つだと考えられており、性格の特性として、新しいことに挑戦する意欲が高い人を指す。そのため、自発的に行動したり、創造的な経験を求める傾向にあるとされている。

 個人に備わっているパーソナリティーは、遺伝による生得的なものと、環境による後天的なものとの相互作用によって形成されることは分かっており、目的本位に行動し、その経験を蓄積していくことで、人格形成(パーソナリティー)に変化をもたらす可能性は多分にある。そのため、「経験への開放性」が低い場合でも、本人の意志次第で行動を起こしていくことは十分可能である。パーソナリティーをドラスティックに変えることは難しいが、まずできることは自身の資質を理解し、自身のパーソナリティーを受け入れることである。そして、本来的な欲求を抑圧せず、「あるがまま」に行動していくことである。

 しかし、頭では分かっていても、それを行動に移すことはとてもむずかしい。それは、将来起こりうるべきことを正確に予想することは難しく、目的を達成できるか正しく判断できないからである。そのため、目的本位に行動するためには、その不確実性を許容する必要がある。それはつまり、失敗する可能性を覚悟のうえで、勇気をもって試みるしかないということである。それは自身の可能性に賭けることであり、危険性の伴うチャレンジである。

 

 

それでも選択していかなければならない

 私たちは、日常生活の中で、常に何らかの選択をし、行動している。それは無意識に選択している場合もあれば、意識して選択している場合もあるだろう。人生を左右するような大きな決断を伴う選択をする場合もある。決断するということは、一つの選択と引き換えに、複数の選択を断念するというトレードオフである。そのような選択には、少なからず、責任が生じることになる。ここでいう責任とは、それを選択した人が引き受けなければならない応答する義務である。

 決断にはリスクが伴う。どんなに思考を巡らせ、結果を計算したとしても、思い通りにならない場合があるからだ。それはこの世界が偶然性と不可分であり、突き詰めたところで、最終的な結論は偶然性に委ねるしかないからだ。そのような決断を伴う選択はギャンブルであり、賭けである。それを選択してしまったことで、最悪な人生が待ち受けているかもしれない。しかし、それでも、どのような結果になろうともその結果を引き受けて、歩んでいくしかない。

 そして決断に至るまでのプロセスには飛躍が伴うだろう。その飛躍を許容するのは、感情の高まりによって生じる勇気や自信、そして享楽だと考えられている。はたまた病的な衝動の可能性もあるだろう。理性で結果を予測しようとも限界があるため、最終的な結論に至るためには、そのような感情の高まりに身を委ねるしかない。しかし、感情自体をコントロールすることは難しく、どちらかというと感情自体も偶発的な側面が強いように思う。ゆえに、繰り返すが、最終的に、私たちは偶然性に身を委ねるしかないのである。

 

 繰り返すが、目的本位に行動するためには、決断が必要である。そして、決断にはリスクが伴い、予測不可能な危険が伴う。思い通りにならない可能性が多分にある。偶然性を受け入れ、それでも目的本位に行動し、賭けていくとはどういうことか。あらゆる哲学者はそのことについて考えてきた。そこで、ハイデガーの「被投的投企」という概念を参照したいと思う。それは偶然性と不可分な関係にあり、私たちに新しい視座をを与えてくれるだろう。まず、「被投的投企」について見ていきたいと思う。

 

 

被投的投企

 「被投的投企」とは、「被投性」という形で生を受けた人間は、常に自己の可能性に向かって開けれている存在であり、その可能性に向かって超え出ようとすること(投企)を意味する。私たちは、自らの意志で選択し、この世界に生まれたわけではない。たまたま、この世界に投げ落とされた偶然的な存在である。そして、それを自覚した人間は、自らの可能性に向かって投げ企てることで、自己実現を目指すようになると考えられている。

 ハイデガーは、時間という観点から人間という存在を考察し、人間の固有のあり方を、自己の存在を時間として展開し、「時間性」に置き換えて考察した。それは、人間は生まれてから死ぬまでの限られてた時間の中を生きる存在であり、現在という視点から過去や未来を開示することで時間を生み出すことを可能としているからだ。「将来」「既在」「現在」という時間を統一的に自覚し、自己を現にそこにあるものとして考える。そして、そのようなあり方を「現存在」と称して人間を定義している。

 ハイデガーは、「不安」という感情をベースに存在とは何かを考えることで、現存在のあり方を考えた。それは、自らの死を意識することで、先駆的に死を覚悟し、それ自体と向き合うことで決意を持って生きていくことができると考えたからだ。ハイデガーは、そのようなあり方を「先駆的決意性」と呼んでいる。私たちは、普段の生活の中で死を意識することはめったにない。同じような日常を繰り返し、無限ループの中を生きているようなものである。「先駆的決意性」は、そのような日常を一変させる効果がある。つまり、自らの死を意識することで、現在から未来への時間が有限化され、その限られた時間を自覚することで、生命がいきいきと輝きだす効果があるからである。そうすることで、人生の掛け替えのなさを自覚し、自己の可能性に向かって投企することができるということである。

 

 つまり、「先駆的決意性」は、人が何かをする際のモチベーションを与える役割があるということである。それによって行動を起こすことができれば、少なからず前進したように思われるが、しかし、それはそのような状況に追い込むことで、自発性を促しているだけなのではないだろうか。つまり、そのような「投企」への導き方は、その選択を肯定することを強制しているだけだと考えられるのである。死への奴隷となり、「とらわれ」の中で何かを選択することは、ある種の抑圧と私は同じように思えてならない。

 

偶然性について

 他方、九鬼周造は、ハイデガーの時間性に着目し、「現在」を主題として偶然性について考えた哲学者である。どういうことか。偶然性とは、予期し得ないことが起こる現象である。たまたま存在した現象にすぎず、何らかの条件が重なったことで「ありえた出来事」である。九鬼周造は、偶然性を「有と無の接触面」と考え、「有に食い入っている無」と説明するが、本来的に偶然性は実態として存在しているわけではなく、私たちが認識することで生じた現象にすぎない。

 そこで、九鬼周造は、「驚き」という感情に着目し、その観点から偶然性を捉えようと試みている。「驚き」は、想定外の出来事が起きた場合に受ける強い感情である。私たちは、未知の出来事に対して、恐怖や不安感を覚える場合が多々あるが、他方、それによって知的好奇心が刺激される場合も多分にある。それは、本質的に人間は、分からない物事に対して、その意味や理由を知りたいという欲求が働くからである。九鬼周造は、「現在の「今」現象した離接肢の現実性の背景に無を目睹して驚異するのが偶然である」と説明するように、「現在」において現実化された現象に、「驚き」という情動を介することで、「偶然性」として認識されるということである。そこから分かるように、「偶然性」は、時間の流れの中で、過去と未来を切断することで、出来事が主題化され、現象として生じるのである。

 

可能性の時間性が未来であり、必然性の時間性が過去であるに反して、偶然性の時間性は「いま」を図式とする現在である。いったい、未来的の可能は現実を通して過去的の必然性へ推移する。可能は、大なる可能性から不可能性に接する極微の可能性に至るまで、可能の可能性によって現実と成る。現実は必然へ展開する。そうして一般に、可能が現実面へ出遇う場合が広義の偶然である。可能性の大きいものでも現実面へ出遇う限りにおいて多少とも偶然の性格をとってくる。なお、勝義の偶然とは特に最小の可能性が、もしくは不可能性が、現実面へ出遇う場合にほかならない。そうして現実性が時間的には現在を意味する限り、偶然性の時間性も現在でなければならない。

 

 九鬼周造は、可能性の時間性をハイデガーから影響を受け、必然性の時間性をベルクソンから影響を受けている。未来を「そうなりうる」可能性の様相として考え、過去を「そうならざるおえない」必然性の様相として考えている。つまり、現在に起こりうることは、過去の経験から未来の可能性を予測することはできるが、他方、「可能は、大なる可能性から不可能性に接する極微の可能性に至るまで、可能の可能性によって現実と成る」と、九鬼周造が指摘するように、予測不可能な出来事が現実化される場合もある。さらに、「勝義の偶然とは特に最小の可能性が、もしくは不可能性が、現実面へ出遇う場合にほかならない」と記されているように、不可能性から生じた偶然性に九鬼周造は着目している。

 九鬼周造の研究者である宮野真生子は「実存の可能性とは未来からやってくるのではなく、むしろ、現実の手前に潜在している可能性と不可能性の同性のなかで、いま偶然を通って産み落とされたと考えるべきではないか。だからこそ、未来へ向けて可能性を選択するためには、いま直面する偶然性からはじめるしかない」と説明している。宮野真生子は、可能性に注視だけではなく、「いま」この瞬間に直面する偶然性と向き合う必要を説く。私たちは、過去の経験から想定できるものを予測し、未来について可能な限り考えるだろう。そして、何かを選択するような場合はなおさらである。しかし、宮野真紀子は、そうであったとしても、想定することすらできない不確かな偶然性を重要と考える。

 

現在という利那において生成する偶然は、まさにその瞬間に創造されるものゆえ、人間の意味づけが届かないものである。過去と未来は、人間による意味を含んだものという意味で直接の経験ではなく間接的に「斜視」されるものであり、現在だけが直接に経験される、「正視」されるものなのである。この「直接」とは、自己の内的な直観という意味ではない点に注意してほしい。それは、人間の手が届かない生成の利那というむき出しの事実によって自己の意味づけが壊されるという経験であり、他なるものとの遭遇することによって引き起こされる純粋な触発のことである。

 

 過去と未来はすでに意味づけされたものである。それは「現在」という時間性を起点にして考えられたものである。現在は、今この瞬間に生じたゆえ、何者でもない時間として存在している。「人間の手が届かない生成の利那というむき出しの事実」と説明されているように、偶然性は、これまでの経験では容易に理解できないような出来事であり、それゆえ、自己の同一性を不安定(宮野真紀子は破壊と称する)にさせる。そして、その純粋な触発を経験したからこそ、自身の想定することのない自己を獲得することができるということである。

 

 では、「偶然性」は、「投企」に対してどのような関わりを持つのだろうか。宮野真生子は、次のように説明する。

 

九鬼は、「他でもありえたにもかかわらずこのようにある」という虚無に晒されながら成立する偶然性こそが、個体の起源であり、根源的社会性の始まる地点であると考えた。なぜなら、偶然性において互いの存在の交換可能性を知ることが同時に互いの存在の有り難さを開示するからである。

 

 偶然性は現在においてたまたま生じた出来事であるが、それは他の様相が生じた可能性を示唆する。つまり、偶然性は無数の可能性の中から現実化した掛け替えのないものであるが、それと同時にその掛け替えのなさを支えるのは、「現実化しなかった無数の可能性」ということである。そして、私たちは、現実化したものだけを自己の内に引き受けるのではなく、現実化しなかったあり得た可能性すらも自己の内に引き受けることで、私たちは存在の有り難さを開示できるということである。宮野真紀子が指摘するように、「他でもありえたにもかかわらずこのようにある」という思弁的に内省することで、新しい自己を開示していくことができるということである。

 

 

ポールの変容的経験について

 宮野真生子は、アメリカの哲学者L.A. ポールの「変容的経験を伴う選択」の考え方に着目する。ポールは、実存的な問いを分析哲学の視点から考察し、選択することによって自己が変容することを肯定的に考察した。宮野真生子は以下のように説明する。

 

選択において決断されるのは、当該の事柄ではなく不確定性/偶然性を含んだ事柄に対応する自己の生き方であるということ。〇〇な人だから△△を選ぶ、のではなく、△△を選ぶことで自分が〇〇な人であることが明らかになる。つまり、私たちは選択し決断することで、はじめて自己に気づくのである。

 

私という変わらない主体を守るために主我性が発動し権力意志で他を押しのけ、選択するのではない。選択するなかで、自己が何を求め、どういう人間なのかを知り、その発見から自分の人生を形作っていく。こうやって自己の人生を打ち立てていくことは、権力意志の主我性と呼ぶべきものだろうか。少なくともそこに「自己同一の必然」と呼ばれるものは前提されていない。

 

 冒頭に、目的本位の作用について考えたが、それはポールの「変容的経験を伴う選択」の考え方に符合する。目的本位に行動するということは、不確実な物事を受け入れ、偶然性を含んだ事柄に対応することで、新たな自己の可能性に気づくということである。「選択するまでのプロセス」から、「選択後のプロセス」を含めて、「変容的経験のプロセス」だといえるだろう。

 すべてが想定できる世界では、経験から予測できる範囲の変化しか起こらない。それを否定するつもりはないし、予定調和であったとしても、なんら問題ないだろう。しかし、偶然性が伴う選択は、自身が想定できないような自己を創出していくことであり、マズローが称する創造的人間となりうるのである。

 

 

「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛している」

 目的本位に行動することで、これまでの自分とは異なる状態へ変化する可能性がある。しかし、行動することには、とてつもない勇気が必要な場合がある。九鬼周造は運命について、「情熱的自覚をもって自己を偶然性の中に沈没し、それによって自己を原本的に活かす如きものでなければならぬ」と記している。情熱的自覚については、ハイデガーの「先駆的決意性」を参照し、九鬼周造の「偶然性」を参照した。

 しかし、そのような情熱的な自覚すら飛び越えて、私たちは衝動的に行動する場合がある。「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛している」 この言葉は、小山田咲子のブログを書籍化したタイトルである。私はこの言葉が大好きで、答えが出せないとき、行動しなければならないとき、決まってこの言葉を思い出す。

 思い切って飛び込んだとしても、どうなるかわからない。強い自覚なのか、享楽に身を委ねたのか、それは状況によって異なるかと思うが、その動機はどうであれば、どうにでもなれと、破壊的な衝動に身を委ねる場合がある。その一瞬に投企する営みを肯定し、受け入れること。そして、それに対して愛おしくさえ思えること。

 この言葉には、投企した後の行動をいかに受け入れるかということの重要性を考えさせられる。飛び越えるまでの勇気も大切だけれど、飛び越えた後、それをいかに肯定し、その行いをどのように評価するか。偶然性(=基礎付けられてないもの)を基礎づけることにより、基礎づけられたもの(=必然性)へと変える営みが、内面化するということなのではないだろうか。そしてそれが、ニーチェの考える「運命愛」であり、偶然性の一回性を肯定し続けることに他ならない。「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛している」 という言葉の強度は、あらゆる不安に苛まれる私を肯定し、行動へと導いてくれる指針を与えてくれる。

 情熱的自覚によって裏付けされた営みも重要であるが、すべてを投げ出して、享楽に身を投げる「いき」な行いも、本来的な人間らしさではないだろうか。

この世界は無意味である。この世界の物事には意味などなく、あらゆる存在に本来的な意義など存在しない。そのような世界を認識する態度は、ニヒリズムや虚無主義と呼ばれており、 すべての事象の根底に虚無を見いだし、真理や価値など存在しないとする思想的な立場である。

 

一見すると、この世界には法則があり、必然的に成立しているように感じられるが、それは私たちが日常生活の中で因果関係を作りだし、それに対して意味付けを行っているからである。絶対的な必然性を見出せるほど、この世界は単純ではなく、どちらかというとこの世界はあまりにも複雑である。それはこの世界が偶然性に満ち溢れているからである。この世界は偶然によって生じているにすぎず、様相が異なっていた可能性はいくらでもある。それは、この世界の原理原則が、偶然性と不可分な関係にあるからである。

 

本論では、偶然性という概念に着目して考えてきた。偶然性は、予期し得ないことが起こる現象であり、何らかの条件が重なることで「出来事」として生じることになる。それは不確かなものであり、何が起こるのかさえ予測できない。それははたまたま存在したものにすぎず、何らかの志向性がそこに向かわなければ、そもそも出来事として認識されることはない。つまり、偶然性とは、それ自体と遭遇した際、主観的な関心を抱くことで現れる様相のことである。

 

九鬼周造は、偶然性を「有と無の接触面」と考え、「有に食い入っている無」と説明する。つまり、本来的に偶然性は「無」であり、それは実態として存在しているものではない。それは何らかの対象に遭遇し、それに対して志向性もった場合に、心的現象として「無」から現れているにすぎないのである。つまり、自身の関心がそこに向かわなければ、「出来事」として現れることはなく、それはただの「無」でしかないということである。

 

では、私たちが関心を向ける対象とは、どのようなものなのか。多かれ少なかれ、私たちは外界からの情報を受容しながら生きている。それは光や音など、五感を通じてあらゆる情報を収集し、状況に応じて適切に処理をしている。しかし、それらはすべて受け入れているわけではなく、身体的な制限による選別を無意識に行っていると考えられている。哲学者であるメイヤスーは、身体的な限界による情報の取捨選択を、第一の選別と形容している。それは、身体的な制限により、事物から得られる情報が制限されることを意味するが、減算による選別は、身体の限界ともいえるだろう。つまり、すべての情報を無限に受け入れられるほど身体は有能ではなく、閉じることで情報を遮断せざるおえないからである。

 

そして、第一の選別を経て、精神による第二の選別が行われる。それは、第一の選別によって得られた情報から、思考可能なものから意識を伴って判断をくだすことになる。その段階では、関心のある物事へ意識が働き、それ自体を有意味と判断した場合に、意味付けを行うことになる。偶然性は、そのタイミングで現れると考えられる。つまり、何らかの対象に対して志向性が働き、それ自体が意識の中に留まった場合に、「出来事」として偶然性は現れるのである。

 

それでは、どのような場合に志向性が働くことになるのか。哲学者のサールは、心に設定された条件を満たした場合に、志向性が働くことになると以下のように説明する。

 

その条件はもっぱら心の内容に内在している。ある物質がその条件を満たすかどうかは、世界次第であって、心次第ではない。まったく同様に、内在的に設定された他のどんな条件についても、ある対象がその条件を満たすかどうかは世界次第であって、心次第ではない。内在主義とは、心がどのようにして条件を設定するかについての理論である。対象は、その条件を満たせば指し示される。ある対象がその条件を満たすかどうかは世界次第だとしても、どのような条件が設定されるかは心次第である。

 

私たちの意識は常に何らかの対象に向かっている。そして、心に設定された条件を満たした場合に、対象は現象として現れることになるということである。その条件に関係しているのは、信念、欲求、意図と考えられており、それらの充足条件を満たした場合に、志向性は現象として現れれるのである。つまり、私たちが関心を向ける対象とは、外界から与えられた刺激がその条件を満たしたものだと考えられる。その志向性と向けられた対象に対して、有意味だと感じた場合に、偶然性は生じるということである。

 

 

必然性=反復可能性があるから、自己同一性という幻想を維持できる

心に設定された条件というものは、個人差があるだろうし、その条件の信ぴょう性は不確かである。心に設定された条件に依存する形で偶然性は現れるのであれば、やはりそれは本来的に無意味なものなのだと思う。つまり、偶然性は、主観的に判断した現象に過ぎない。そして、それ自体に意味を見出している時点で、そのような解釈自体が思い込みや根拠のない信念にすぎず、いわゆるドクサと呼ばれるものでしかない。信念は感情的なものであり、極端に言えば幻想のようなものである。それはすでにニーチェが指摘していることである。

 

この世界は本来的に無意味なものである。しかし、私たちはその無意味なものに対して、意味を見出そうと試みてしまう。その意味付けを行い、作り出された現実は、虚構と呼ばれるものであるが、私たちはその虚構を拠り所にしなければ生きられない。私たちは、虚構を媒介とすることで、この世界や現実を認識することができる。それは、私たちに備わっている認知システムが可能にする。外界からの情報を知覚し、それ自体を評価し、意味のあるものとして解釈をする。その認知システムが、不確定な世界に対して安定を図る役割を果たす。

 

不規則な世界では、私たちは生活することは困難である。多かれ少なかれ、私たちは、日常生活の中で因果関係を見出し、習慣として獲得することができる。それは必然的に生じる因果関係というわけではなく、原因と結果を都合よくつなぎ合わせて解釈しているにすぎない。ヒュームはそれを習慣によるものだと説明している。つまり、習慣は、秩序化された観念を作っていくプロセスだといえる。そのような観念が共有されているため、私たちは、偶然性に満ち溢れた世界を意識することなく、生活を営むことができるのである。

 

それは、個人が獲得するもの場合もあれば、社会通念として形成されていく場合もある。社会秩序が形成されていることで、私たちは安定した社会システムの中で生活することができるのである。私たちはこの世界を肯定して生きることができるのは、何も考えなくても社会生活を営むことができる盤石なシステムが作られているからである。

 

 

歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリは、「認知革命」によって、私たちは虚構を信じることを可能にしたと説明する。それは、集団の秩序や帰属意識を維持するための役割を担い、社会システムは虚構を信じているからこそ成立していると考えられている。そして、その虚構が、二つの条件を満たせば人生の意味を与えてくれると説明する。ひとつ目は、私に何らかの役割を与えること。ふたつ目は、自分よりも何か大きいものの中(大きな物語)に埋め込むこと。その条件を満たすことで、私たちにアイデンティティを提供し、私の人生に意味を与えてくれるというのである。

 

優れた物語は、私に役割を与えなければならないし、私の視野の外まで延びていかなければならないものの、真実である必要はない。物語は純粋な虚構でありながら、それでも私にアイデンティティを提供し、自分の人生には意味があると感じさせることができる。実際、私たちの科学的理解の及ぶかぎりでは、さまざまな文化や宗教や部族が歴史を通して生み出してきた幾千万の物語は、一つとして真実ではない。どれもただの人間の創作にすぎない。もしあなたが人生の真の意味を問い、その答えとして物語を与えられたら、それが間違った答えであることを承知してほしい。厳密な詳細はあまり関係ない。どんな物語も間違っている。たんに、それが物語だからだ。この世界は物語のようには展開しない。

 

ハラリは、物語の重要性を説きつつ、しかし、それ自体は無意味なものだと考えていることが伺える。それはつまり、物語は「虚構」に過ぎないということである。そして、私たちがその虚構を信じるのは、幼い頃から物語を聞かされ、物語によって世界を構築しているからである。それは個人だけではなく、社会や国家も同様である。

 

だから、私たちは、物語を信じるということよりも、それ自体を疑うことのほうが難しいのだろう。物語は、私たちにとってあまりにも当たり前のことであるし、疑うことでこれまで築き上げてきた何かが瓦解するようにすら感じられる。アイデンティティですら失いかねないだろう。

 

しかし、だからといって、本来的にこの世界に信じるに値する物語などあるのだろうか。私が懐疑的なだけかもしれないが、すべてが偽善的にすら思えてならない。アニメや小説の物語のほうがよっぽどましである。

 

 

「うそ」ほどの理念でいい

SF作家のカート・ヴォネガットは、インタビューで「うそ」の必要性を説く。彼は小説やエッセイの中で、決定論的な思想が見受けられることがある。そして、その思想は読者に受け入れられ、彼の哲学として受容されている。その指摘を受けて、カート・ヴォネガットは、「それらはたわごとにすぎない」と説明し、以下のように説明する。

 

それは、たったいま話したことがたわごとだからです。でも、有益な、心の慰めになるたわごとでしょ。そこなんです、わたしが説教師どもに反発するのは。彼らはだれかを少しでも楽しくさせるようなことを、なにひとつ言わない。話そうと思ったらこういう気分のいいうそがたっぷりあるというのに。しかも、うそといえば、あらゆることがうそなのです。なにしろ、われわれの頭脳は情報単位が2ビットしかないコンピュータだから、そこからはあまり高度の真実は得られません。しかし、人間の条件を改善することだけ考えるなら、われわれの知能はもちろんその能力を持っています。知能はそのためにつくられた。そしてわれわれは慰めになるうそを作り出す自由を持っている。ところが、われわれはその自由を十分に生かしていないのです。

 

この世界は「うそ」でできている。その理由としては、私たちは「うそ」がなければ、生きることがあまりにも大変だからである。「うそ」という言葉には、少なからず、ネガティブな印象を受けるが、カート・ヴォネガットは、「うそ」が私たちに与える豊かな役割を提示していると思う。私たちが認識できるものなどたかが知れており、真実にたどり着くことも理解することもできない。だが、私たちが考えている程度の人間の条件を改善することはいくらでも可能だし、その程度の「うそ」であればいくらでも自由に創り出すことができるということである。

 

カート・ヴォネガットは、それを「うそ」と呼んでいるが、それらはいくらでも言い換えることができる。例えば、虚構、物語、ドラマ、世界観。私はそこにユーモアも足してもいいんじゃないかと思う。それらの観念を媒介とすることで現実をそれなりに捉えることができ、豊かな日常を営むことが可能となるのである。

 

 

前回、自己を方向づけるために、理念が必要だと説明したが、それは「うそ」ほどの理念で丁度いいのではないだろうか。大きな物語が失われてしまったとしても、日常を豊かにする程度の「うそ」があれば事足りるように思えてくる。そうすると、「根拠のない自信が必要」という言説ですら、輝きを取り戻してくるような気さえする。

 

まあ、とにかく、目的本位に行動するための準備は整ったと言えるだろう。「真」と仮定した「うそ」を拠り所にして、えいやっと人生を賭けること。それが次回のテーマである。