35歳問題について 被投的投企と弱い偶然性(仮)⑦ | センテンスサワー

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私は今年の春に35歳になった。35歳という年齢は、人生の折り返し地点だと考えられることがある。村上春樹の「プールサイド」という短編では、35歳という年齢は人生の折り返し地点と考えられ、「35歳問題」として考察された。他にも、ダンテの「神曲」の主人公は35歳で古代ローマの詩人と邂逅し、彼に導かれて地獄、煉獄、天国と彼岸の国を遍歴することになる。また、哲学者のショーペンハウアーは、36歳を境に老いを感じはじめることになり、これからの生き方について考えていかなければならないと説教臭いことを述べている。

 

現在の寿命という観点から考えると35歳という年齢を人生の折り返し地点とするのは少し早いような気もするが、プールサイドの主人公がその年齢になったときに折り返し地点として確信したというのは、肌感覚では私自身も共感はできる。東浩紀は『クォンタム・ファミリーズ』の中で「35歳問題」について取り上げ、以下のように考察している。

 

ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば、別の職業を選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。そして、その両者のバランスは、おそらく三十五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。

 

私たちは、この世界に投げ落とされたときから、あらゆる可能性に開かれている。そして、その可能性に開かれた様々な分岐点に立ち、そのたびに人生の選択をしながら生きていくことになる。しかし、年齢を重ねていくことで、可能性は縮減されていき、仮定法過去の「ありえることのなかった現実」が増大することになる。そして、双方の総量が逆転する年齢が35歳だと東は指摘している。選ばれることのなかった選択肢は仮定法過去の亡霊として私たちを苦しめることになる。

 

「プールサイド」の主人公は、幸せな人生を送っているように感じられるが、「にもかかわらず」憂鬱だと本人が感じるのは、その亡霊が背後から忍び寄ってきて、「タラレバのありえなかった現実」を想起させるよう囁くからである。もしあのときこうしていれば。なぜ、あのような選択をしてしまったのか。

 

その亡霊は、選択されることのなかった過去の自分自身の振る舞いである。彼らは永遠に交わることはないが、可能性とその選択肢の数だけ、徐々に増えていくことになる。私を含めて大多数の人は、「プールサイド」の主人公のように、「仮定法過去の亡霊」に「とらわれ」てしまうことになるのだろうが、これまでの連載でその処方箋について考えてきた。それは「現実化しなかった無数の可能性」を受け入れ、内面化することである。私たちは、現実化したものだけを自己の内に引き受けるのではなく、現実化しなかったあり得た可能性すらも自己の内に引き受けることで、私たちは存在の有り難さを感じることができるのである。宮野真紀子が指摘するように、「他でもありえたにもかかわらずこのようにある」という思弁的に内省することで、仮定法過去の亡霊にとらわれることなく、新しい自己の可能性を開示してくことができるのである。

 

 

強い偶然性(弱い必然性)から、弱い偶然性(強い必然性)へ

私たちは、「被投性」という形で偶然的に生を受け、「偶然的存在」として生きていくことになる。そして、生きながらえながらこの世にとどまり、いずれ死ぬことになる。私たちがこの世界に誕生する根拠は、現時点では何一つ分かっていない。確率的にも天文学的数字になるだろうし、確率にすら置き換えることができない「一回性」の出来事として、たまたま生じたにすぎない。それはあまりにも「強い偶然性」と呼べるだろう。根拠付などできない一回性としての奇跡である。そして、私たちはいずれ死ぬ。これは現時点で分かりきっている事実であり、限りなく必然性(強い必然性)に近いものである。生きるというのは、その両極端な一回性の間を、偶然性によって翻弄されながら、はたまた必然性にがんじがらめにとらわれながら、やり過ごしていくことである。

 

私たちは、この世界ではあまにも弱い存在でしかない。この世界は思い通りにいかないことばかりで不自由であり、偶然的な意味でも、必然的な意味でも、どうすることもできない無力な存在である。しかし、少なからず、目的本位に行動していくことで、偶然的な存在として生きていくことができる。それは「弱い偶然性」なのかもしれないが、少なからず「被投的投企」に生きることができる可能性に秘められているだろう。

 

 

カート・ヴォネガットの作品に『スローターハウス5』というSF小説がある。ヴォネガットの第二次世界大戦の経験をもとに「生きることの不条理」を主題とした作品である。主人公のオフィスの壁に彼の生活信条の祈りの言葉が飾ってあるのだが、その言葉は私たちに新たな視座を与えてくれるように思う。

 

神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を
受けいれる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とを
さずけたまえ

 

この言葉は、アメリカの神学者の言葉が引用元とされている。私たちは、あらゆる経験を積んだとしても、双方の違いを容易に見分けることができないだろう。それがあまりにも困難なため、ショーペンハウアーは「生きんとする意志」を否定することを主張し、他方、ニーチェは、「力への意志」を肯定し、活動能力の増大を主張した。この言葉は第三の道として、まず、双方の違いを見分けることの重要性を説く。端からあきらめるのではなく、生の欲望に従うのでもなく、まず、双方が変更可能な事柄か否かを見極めることからはじめるということである。

 

そして、「変えることができる物事を変える選択をしなかった」ことを受け入れ、「変えることのできない物事を変えようとしつづける」ことをあきらめる勇気も併せて必要なのではないだろうか。「仮定法過去の亡霊」にとらわれたり、「現在進行系のゾンビ」と化したり、35歳以降、私たちは不条理な現実に直面しつづけることになるだろうが、だとしても「一回性の連続」としての人生を生きていくことの「掛け替えのなさ」を実感することでしか、生きる意味を見出すことができないのではないだろうか。そういうもんだ。