六月の下旬、新聞の夕刊に
『罪を祓う』というコラムが
掲載されていました
よく「罪と罰」といいますし
「罪は罰せられるべきだ」と
私も無意識に思っていました
でも、このコラムを寄稿された
能楽師の安田登氏によると
罪という漢字には
「つみ」という訓読みと
「ざい」という音読みがありますが
罰という漢字には
「ばつ」という音読みしかありません
もともと日本にあった大和言葉に
漢字を当てはめたものが訓読みであり
中国から入ってきた発音に基づくものが音読み
つまり訓読みがないということは
その漢字に当てはまる大和言葉が
なかったということ
なので「罰」という概念は
中国から輸入されたものであり
日本古来のものではないのだそうです
そもそも「罪は罰するものではなく祓うもの」
というのが、本来の日本の考え方のようです
神社では大祓詞(おおはらえのことば)
という祝詞(のりと)を唱えて罪を祓うそうですが
一般人の私たちも気持ちを込めて
祝詞を神に捧げる行動を取ることで
言霊(ことだま)によって
罪を祓うことができるといいます
そして昨日の六月三十日
「今日は夏越の祓(なごしのはらえ)」
というメッセージが
京都の友だちからLINEで届きました
ちょうどいい機会なので
ネットで大祓詞を検索してみました
大祓詞の現代語訳を読んでみると
セオリツヒメが川から海へと罪を持ち去り
ハヤアキツヒメが大海原で罪を呑み込み
イブキドヌシが風を起こして罪を吹き放ち
ハヤサスラヒメがその罪を持ってさすらっているうちに
いつの間にか気づいたら罪が消えてなくなっている
というのです
なんて大らかな考え方!
自分も他人も責めることなく
神さまにお願いして罪を祓い清めてもらう
「罪は罰せられるべき」という考え方は
一見理にかなっているように思えますが
他責の念と自責の念は表裏一体で
必ず自分に返ってきます
私が自己否定に走りがちで
自己肯定感が低かったのも
「罪は罰せられるべき」という考え方に
囚われていたせいかもしれません
今の一部の政治家や組織の人たちの
権力を笠に着た行動を見るにつけ
天罰が下ればいいと思うし
とうてい許すなんてできません
戦わざるを得ないこともあります
でも、まずは大祓詞を奏上して
相手を打ち負かすことではなく
相手の罪と自分の罪が祓い清められることを
真摯な気持ちで祈るなら
勝ち負けを超越した世界へと
意識がつながっていきます
そして勝ち負けを超越した境地に達することが
私たちの本当の願いなのかもしれません
中国から輸入されてきた
「罰」という概念に囚われず
相手を罰したくなったときはいつでも
大祓詞を声に出して神さまに奏上すればいい
きっと7月5日に生まれ変わる新しい世界は
人間どうしで罪を罰する世界ではなく
全ての罪が神さまによって祓い清められる
大らかな大和の世界になるでしょう