日本テレビで放映していたドラマ「セクシー田中さん」は漫画を原作としてドラマ化されたもので、原作者と脚本家の相克のような話題になった。昼間は地味な事務員だが、定時後は「ベリーダンス」を習い時には派手なステージ衣装で舞台にも立つといった話で、ギャップが売りのドラマであった。

 

この原作者が放映後自殺したことで、ネット上で一気に広がり、原作者側また脚本家側更にはテレビ局の対応といった問題に発展した。脚本家は自分の担当した脚本は1~8話までと言い、原作者が脚本に口を挟み最後は自ら脚本を書くまでになったと言い、原作者は原作の意図を反映されていないと言っていたらしい。

 

小説や漫画などをドラマ化したり映画化する話はよくあり、原作を読んで映画などを見るときも、映画だけを見るときもあるが原作を知っているときは比較をしてしまう。原作では主人公の相手役は男だが、映画やドラマになると女性になったりすることはよくあり、時にその改変はより作品の価値を上げることはある。

 

また既に古典になったような小説からドラマ化されると、主人公の立場(隠居など)は変わらないが話の本筋は他の小説から持ってきたようなケースもある。これはドラマ(映画)化するときの原作者やその遺族で著作権者との話し合いで決まっているものだろう。

 

原作を知っているものから映画やドラマを見ると、一番目につくのは配役が原作のイメージと合っているかだが、映像化されこう言う見方もあるかと思うこともある。しかし概ね原作本を見て自分が想像していた佇まいの役者さんを見ると、我が意を得た気持ちで落ち着くのも確かである。

 

読んだものでもこのような感想を抱くのだから、原作者は映像作品を見ると更に多くのことを感じるだろうし時に違和感を覚えることもあろう。脚本家も一つの専門職としての矜持があるだろうが、無から有を生み出す原作者とは違い一種の技術であって、オリジナリティはなく、原作者との差もそこにある。

 

この手の多くの場合はテレビ局などの原作買い取りの方法が選ばれ、放映後の報酬も視聴率等では差が出ないことが普通だと言われている。映像化することで原作への大いなる宣伝にもなるが、このことが脚本の改作などテレビ局から原作者への恩着せがましい態度になっていたら、この問題の鍵かもしれない。