ドラゴンボールとマルセイユタロット | タロットの煌めき マルセイユタロット活用術

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伝統的なマルセイユタロットを使っての、自分と人のために活かせる知識と方法をお伝えしています。

アニメファンの私にとって、漫画家の鳥山明氏死去の報に衝撃を受けた矢先、声優のTARAKOさんもお亡くなりになるという、二重のショッキングな出来事があり、茫然としておりました。

 

とにかく、お二方のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。

 

鳥山氏の作品の「ドラゴンボール」については、特に40から60代の男性諸氏にとっては、日本の(世界においてもですが)かなりの数の人が何らかの形で接していて、皆さんに与えた影響力はすさまじいものがあったと思います。

 

ですから、その喪失感たるや、生半可なものではないでしょう。私も例にもれず、いまだ信じられない気持ちがあります。何か自分の生きてきた歴史の一部が抜け落ちような気分にさせられるのです。

 

一方、TARAKOさんは、アニメ「ちびまる子ちゃん」の声でおなじみであり、もはやサザエさん同様の国民的作品になっていることで広くその声は知られていることでしょう。ちびまる子ちゃんは、まさに年代的に私の小学生時代そのものに当たる(作者のさくらももこ氏と一歳違いです)ので、作品的に共感するシーンがたくさんありました。

 

TARAKOさんを知ったのは、「戦闘メカ・ザブングル」という作品(この作品はギャグテイストですが、設定的には深いものがある作品で、あのガンダムの富野氏が手掛けています)で、チルという少女を演じられていたのが最初だったと思います。デビューはそれよりちょっと前らしいですが。その特徴的な声優名と、独特の声からとても印象的だったのを覚えています。

 

鳥山氏もTARAKOさんもまだ60代と、お亡くなりになるお年ではありませんので、非常に驚いております。

 

さて、鳥山氏の作品の代名詞とも言える「ドラゴンボール」ですが、この作品は西遊記をモチーフに、初期の頃は主人公たちの冒険、その後はバトルものに変わっていきました。まあ、その変化は掲載されていた少年ジャンプの宿命でもありますね。

 

私自身、少年・青年期の頃は「ドラゴンボール」も、バトルものの時代が好きで、読みながら興奮しておりましたが、今となっては、むしろ初期の冒険メインの頃のほうが懐かしくもあり、また純粋さがあって味わいがあるように感じます。

 

実は、ドラゴンボールは、もとが西遊記なこともあるのか、マルセイユタロット的に見ても、興味深いところがあります。特に錬金術的なものとリンクするところが結構あるように思います。(西遊記自体、中国的な錬金術や、仏教的な悟りのための象徴的な話だと言われています)

 

まず、何と言っても、ドラゴンボールのタイトルの由来になっている7つの玉(ボール)、そしてその玉を全部集めると願いをかなえるために現れるドラゴン、シェンロン(神龍)が登場するという話です。

 

ドラゴンは、よく秘術的な世界で象徴される生き物です。西洋的ドラゴンと東洋的龍では違いが結構ありますが、ただ、共通しているのは、何らかのエネルギーの象徴ということです。

 

それは大地のエネルギーであったり、錬金術によってやがて金へと昇華していく物質の変化の例えであったりします。また、人間がコントロールしなければならない荒ぶるもの、本能的な衝動とか欲望なども表すことがあります。

 

西洋でも聖人とか騎士が、ドラゴンと戦うという話はよくあり、ファンタジー世界では、強大な力を持つ種族としておなじみです。

 

そして、7つの玉は、7という数と玉という暗示があります。玉は東洋の龍ではセットになっているもの(この場合は「ぎょく」ですが)で、龍にとって非常に大切なもので、それは宝であり、なおかつ、魂とか本質に近いものと言えます。

 

ちなみに、私自身は辰年生まれで、スピリチュアルな鑑定を受けると、不思議と龍に縁があるとよく言われるのと、自分自身が龍だったような時代があるようで、その時に、大事な玉をなくしてしまい、いまだその影響が私の記憶にあるということを言われたことがあります。(もちろん、そのまま信じているわけではなく、自己における象徴的なものとしてとらえています)

 

龍の玉は仏教的にも如意宝珠とも言われ、まさに願いを何でもかなえることのできる宝であるのですが、やはり、そこは例えや象徴として考えてみますと、統合的魂(完全性・神性・仏性)の分離したものと考えられるかもしれません。(仏教的には8つに分かれるのかもしれませんが)

 

実はマルセイユタロットにおいても、大アルカナを3段7列に置く、カモワン流では有名な配置図があります。ここに7という数が浮上します。言ってみれば、人間の完成には7つの大きな段階があるということを示唆するでしょう。

 

チャクラも7つで表すことが普通ですし、曜日のもとになった(古典)占星術的な惑星の配置も7つです。古今東西で表現されてきたように、おそらく霊的に7つの段階、7つの区分のようなものがあることは普遍的な概念であった可能性が高いです。

 

グノーシス(神話)的には、7つというのは悪魔的な、私たちの悟り(完成)を阻む障害の数にもなってきますが、逆にいうと、これらを克服すると、完成に至るわけですから、ある意味、この7つを知ることは重要な要素になるわけです。

 

つまり、マルセイユタロット的に見れば、細かく言えば大アルカナで象徴される21の自らの分身があり、それを大きな範疇でとらえると、7つになるというわけです。

 

ドラゴンボールを7つ集めると、願いをかなえることができるという話は、マルセイユタロットの観点からは、私たちは地上では常に7つに分離されている魂があり、それを拾い集め、霊的に向上していかなくてはならないという教訓・啓示として考えることができます。

 

漫画・アニメの「ドラゴンボール」では、ドラゴンボールが結局、亡くなった人を生き返らせる道具の意味で使われることが多くなりました。

 

これも象徴的に考えますと、私たちは魂が分離している間は、言わば死んでいる状態であり、7つが統合されて初めて本当の生者として再生されるという話にも思えます。マルセイユタロットにある「審判」のカードで甦った状態です。

 

少年漫画誌のために描かれた作品ですから、鳥山氏や制作陣が秘伝的なものを描こうとしていたわけではないでしょうし、そういった知識を盛り込んだものでもないでしょう。

 

しかし、こうした二次元的な作品は、インスピレーションや想念の世界とつながることが多く、そうした世界から自然に受け取っているところも見受けられます。

 

ですから、知らず知らず、魂の象徴的な話と関連するケースがあるのです。

 

孫悟空という主人公は、もちろん西遊記から取れられた名前ですが、それだけに悟空という名前に、「空(くう)を悟る」という仏教的な意味合いが付与されています。

 

空を悟るために、私たちは旅に出て、いろいろな冒険をし、分離された魂を集め、本当の自分を再生する(出会う)ことになるのです。まさに、これはマルセイユタロットでいう、大アルカナの旅です。

 

鳥山氏は乗り物やメカがお好きだったようで、その驚愕する画力で、秀逸なデザイン性の乗り物を発明して描きました。奇しくも、マルセイユタロット的には、最初の段階の完成を意味する7の「戦車」が乗り物として登場します。

 

「ドラゴンボール」の孫悟空は、最初は筋斗雲という、これまた西遊記に出て来る雲の乗り物に乗っていましたが、空を飛ぶ技術(舞空術)をマスターしてからは、雲にも乗らなくなりました。

 

なお、筋斗雲は心が曇っていたり、邪なものを持っていたりすると乗れないという代物で、もとは悟空の師匠・亀仙人の乗り物でしたが、亀仙人がスケベ心(笑)を持っていたために乗れなくなり、悟空に譲った(もとは亀を助けたお礼で悟空に贈られたもの)という経緯があります。その悟空も、先述したように、筋斗雲は不必要となりました。

 

そして、マルセイユタロットの「戦車」は、実際的な乗り物のように見えて、本当は霊的な乗り物だと言われます。「ドラゴンボール」において、筋斗雲でさえ登場しなくなっていき、やがて自力で空を飛ぶことが普通になるというのは、こうした霊的な乗り物に乗り換えているという象徴にも思えますし、鳥(鷲)として翼を持ち、自由性を獲得し、やがて天上に回帰するという話にも通じます。(鳥山氏と、鳥山氏を世に送り出した当時の編集者・鳥嶋氏と、「鳥」が重なるところも象徴的です)

 

というようなわけで、意図していなくても、「ドラゴンボール」というのは、結構、マルセイユタロットに描かれる口伝的な内容にリンクしているところもあるという話をいたしました。

 

何より、私たちが失われがちな冒険心と可能性(チャレンジ精神)、ワクワク感を思い出させる作品が、「ドラゴンボール」でもありました。「ドラゴンボール」のアニメ初期のエンディング、「ロマンティックあげるよ」の歌詞さながらです。

 

鳥山氏はじめ、ドラゴンボールを生み出してくれた方々に感謝の気持ちを送りたいと存じます。