異世界転生ものの背景 | タロットの煌めき マルセイユタロット活用術

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伝統的なマルセイユタロットを使っての、自分と人のために活かせる知識と方法をお伝えしています。

私はアニメをよく見ます。

 

このところ、作品で目立って増えてきたのが、ライトノベルなどが原作の、異世界転生ものです。

 

たいてい、こちらの世界で不遇な身の上とか、ぱっとしない人生の者が異世界に転生し、無双するというパターンが多いです。

 

転生する時、転生者は以前の世界で暮らしていた内容を記憶し、さらに、その転生を司る神様のような存在が、転生者に特殊な能力を授けることも、お決まりです。

 

そして転生先は、なぜか中世ヨーロッパぽい文化(レベル)が多く、そこで現代人の知識がモノを言う(結局、主人公無双状態になる)ということもお約束みたいになっています。(笑)

 

このように、転生した主人公が苦労もなく、強すぎ、恵まれた人生を送ることがほとんどなので、転生ものは、現代人の現実逃避的感情が反映されたものとの批判も少なくないです。

 

確かに、このジャンルに限らずですが、アニメ全体が昔からよく言われるように、現実逃避的な傾向を持つのは否めないと感じます。

 

しかし、一概に転生ものの流行りが、現実逃避だという批判もどうかと思います。

 

作品は世相や時代を反映するものですし、もっというと、スピリチュアル的な目線では、大きな進化のうねり、宇宙的成長過程の一環ようなものも影響しているように思うからです。

 

漫画やアニメーションの分野は、イマジネーションの世界であり、そこには現実を超えたものも存在します。

 

時間的には、はるか古代から近未来、はては超未来まで表しているのがあるでしょうし、空間的にも、日本だけではなく、世界、そして宇宙、さらには多次元的な世界(宇宙)も表現されます。

 

言い換えれば、私たちの常識だと思っている現実の時空が超越された情報空間に接触しているのが漫画やアニメの表現だと、考えられるのです。

 

この意味では、非常にタロットと似ています。タロットも絵であり、イメージの世界と関係するからです。

 

私はたまたまアニメ好きな上に、(マルセイユ)タロットと深く関わってきましたので、超越的な情報がアニメにあふれていることに気づきました。

 

さて、話を異世界転生ものに戻します。

 

一見、安易な異世界転生ものですが、ここまで、テンプレ的な形で作品が数多生み出されている背景には、ずばり、今の社会の限界が投影されていると見ます。

 

異世界に転生して無双したいほど夢想(しゃれではありませんが)してしまうのは、それだけ現実生活・社会に希望が持てないからでもあるでしょう。

 

はっきり言えば、今の社会は楽しくない、苦しい、生きがいも感じられないのです。特に若者たち(年配の方もですが)が、どうしていいいのかわからず、混乱しているようにも感じます。

 

異世界転生もので、転生先に中世ヨーロッパぽいものが多いのは、もちろん、それがこうした作品のお約束(もとはゲーム世界からの引用と思われます)ではあるのですが、日本的な舞台だと日本人目線では異世界感がないのと、日本人は、中世ヨーロッパ(実際には近世に近いですが)の街並みとかお城が、(絵本などで)メルヘンチックにイメージとして刷り込まれているからだと想像されます。

 

当然ですが、いわゆる創作もので「異世界」ですから、実際の中近世ヨーロッパの文化とは別もので、都合よく、清潔化されていたり、魔法が当たり前のように存在していたりと、異世界転生ものならではのお約束、ご都合主義(苦笑)があります。

 

ただ、うがった見方ではありますが、深い観点からすれば、まず、近世からのヨーロッパが、大きく世界としての時代が変わってきた時点であり、現代社会の基礎となっている部分が色々と多いのも確かです。

 

となりますと、中世ヨーロッパという舞台が異世界転生もので選ばれるのも、単にイメージの刷り込みとかメルヘン的な意味だけではなく、現代につながる部分の変革前の時代であるからこそ、その時代に戻って、今の社会にならないように、変化のやり直しを行いたいという集合的心理が働いているようにも感じます。

 

転生ものには、イデアや理想が描かれる場合が結構あります。こちらの世界では不遇であった主人公が、転生先で力を得たがために、成し遂げたい、あるいはそいう社会で暮らしたいと思っていた理想社会のイメージを、少しずつ実現していくというパターンです。

 

それは人々の心や関係性に関わることで描かれ、本質的には文化レベルとか技術革新だけで生活が豊かになったり、人々が幸せになったりするわけではないことも表現されています。

 

転生する主人公は、一見、神様から特別な力を与えてもらったから、転生先ですごい人物になっていると思われがちですが、実際は、その人物本来の性格や行動力が発揮されて、尊敬を得たり、愛されたりしています。

 

こうした転生ものに、批判として多くあるのは、「環境が悪いから私は不幸なのだ」(言い換えれば、適切な環境・能力が与えてもらえれば自分は活躍できる、幸福になれる)という考え方を助長するというのがあります。

 

それは一理あると思います。自分自身を問題視せず、悪いことは他人や周りの責任にしてしまうという態度です。

 

ですが、たいていの転生ものは、お気楽なように見えつつも、先述したように、無条件で主人公たちが評価されているわけではなく、それなりの努力やアイデアの実行、本人の真っ当な思いも見受けられるものです。

 

責任転嫁の態度は自分の成長を阻害しますが、環境や社会自体が、自分自身を生きづらくさせるものであるのなら、自分のせいだけにするのもおかしな(苦しい)話です。

 

実際、私たちのいるこちらの世界、こちらの現実は、最初から理不尽なものと言えます。生まれた時から能力とか体力、家庭環境等、もしパラメーターで示されるのならば、一人一人本当にバラバラで、不平等極まりない世界です。

 

その中で、いわゆる普通の生活が過ごせ、幸せを感じるように生きるというのは、(便利さや技術は向上しても)時代が進化するほど難しくなっているように思います。

 

そうした中で、すべて自己責任の世界だと苦しいばかりですし、社会が変わる可能性が低くなります。また、時の為政者たちに騙され、奴隷扱いされていることにも気づきにくくなります。

 

私たちに今必要なのは、むしろ外(社会やそれを普通に思わる環境・システム)がおかしいことに気づくことではないでしょうか。

 

究極的には、すべてを自分に帰せるという考えもスピリチュアル的にはできますが、それは相当深い次元での話だと思います。

 

異世界転生もの(の流行)は、現代の社会システムによる生き方が限界に来ていること、もはや、それでは、ほとんどの人が幸せと感じることが難しくなっていることを示唆していると考えます。

 

想像できるものには、創造の元型があります。

 

もし、アニメで想像した世界が、よいものを示しているのなら、それは私たちの心の中に元が存在していることになります。

 

それに幸せや心地よさを感じるのであれば、私たちはどのようなものがよいのか、すでに知っているわけです。

 

マルセイユタロットで言えば、「愚者」が「世界」(のカードの境地)を目指しているかのごとく、異世界転生ものを表現することで、現実を超えた、言わば天上世界的な理想を思い出そうとしているのです。

 

マルセイユタロットでは、21「世界」のカードと1「手品師」のカード、最後と最初のカードが細かくリンクしあうようにに描かれています。

 

まさに天上から地上へ、その本質が降ろされているようにも見えます。

 

現状(現実世界)は「手品師」として、こうした実際の社会の表現がなされていますが、同じもの(それはタロット的に言うと四大元素)を使いながら、もっと変えることができるとタロットは語っているようでもあります。

 

異世界転生ものは、私たちに、魂の故郷を思い出させ、今の社会には問題があって、それを変容させるべき時に来ていることを、軽いタッチで表現している作品だと感じます。

 

ですから逃避的ではあっても、癒され、希望や勇気、愛をも不思議と想起させる作品が結構あるように思うのです。