gaudente e calando -612ページ目

ティコ

昨夜、製薬会社がスポンサーしている隙間番組で、彼を紹介していた。
うちには、たまたまテレビで聴いた母が気に入って買っていたデビューアルバム。最近、また聴き直そうと考えていただけに、絶妙のタイミングだった。

歌詞を乗せて歌えそうな、星空と心への詩情。

from
押尾コータロー STARTING POINT  東芝EMI

スーパースター

ただいま多くの人のパワープレイナンバーと化しているだろうアルバムより。

この気持ち、すごく良く分かるんだ。

「ポプリ」も、この曲の詞の気持ちと似ていると思っているけど、でもこちらの方が前向きかなあ。「ポプリ」は、立ち止まってしまっている感じが強いから。


今の自分に寄り添って一緒に歩いてくれる歌。


from

東京事変 大人(初回限定盤)  東芝EMI


Prologue & the fact

使い途!

思いついたらどんどん投稿するってことにしてみます。

そうすれば、放置せずにすむし・・・。


自由ってなんだ

この数日、日頃拝見しているいくつかのブログの記事から感じたことを書こうと思います。
とても悶々とした内容で長いものですので、そういう文章の苦手な方々には飛ばしてお読みになることをおすすめいたします。

そもそも、これから私がお伝えしようとしていることは、
「そんなこと言い始めたら、ブログどころか一言も話せなくなっちゃうじゃない」というような、堂々巡りになりかねない昔からの一般論でもあります。
そのことをご了承の上、先へお進みください。

そして、本当に長いです。
論文やレポートを書く時は苦労するのに、どうしてこういう時だけすぐに4000字を超えるのだろう・・・と、やるせない気分です。
私の文章は基本的にかなり長くてまどろっこしい、娯楽には程遠いものですが、もしお読みくださるのなら嬉しいです。




ごく最近、私は、このブログの使い道を変える前に参戦したライヴの公演名だけでもリストにして載せようかなと思い始めました。
今までは載せる気などなかったのですが、実際にお会いしてお話を始めると過去のライヴ経験が話題に上ることがありまして、ご参考までに置いておくのも良いかな、なんて考えたのです。
それで、私は忘れもしない、自分で初めてチケットを電話で予約して参戦したライヴまで遡ってリストアップしようとしました。もう、どこへその半券をしまい込んだかも思い出せなくて、さて12月の何日だったかなという具合のものです。

リストのことを考えつつ、様々な方のブログをお邪魔しておりましたところ、ある記事に目が留まりました。
年末年始の特番や、ドキュメンタリーなどで音楽の演奏シーンが放映されることの多いこの時期によく見かける、演奏のレベルに対するご苦言でした。このブロガーさんは、その演奏者をご存知ないご様子でした。私は興味本位で、記事の様子から伺える語句を頼りに番組を探すことにいたしました。調べが付いたらブロガーさんへコメントででもお知らせしてみようかと思ったのです。
記事がかなり具体的であったため、程なく件の演奏者が判明いたしました。
しかし、私はコメントを残そうとし・・・止めました。沈黙を守ろうと決めました。
それは、上で申し上げた、私の初ライヴのアーティストだったのです。
別に、ブロガーさんのご意見自体に気分を悪くしたわけではございません。耳の肥えた、あるいは良く訓練を積んだ方々であれば、多くの人気の音楽がひどく聞こえるはずの程度のものだということくらい、私は容易に想像できますし、私自身彼らの演奏には「危なっかしいな」と感じることもございましたから。
しかし・・・。
私は、彼らの演奏レベルがどうとかではなく、曲が好きなのです。
ライヴに行くほど好きと言っても、ライヴにはそれ以降行っておりませんし、近年は新曲のチェックも怠り流れてくる音に反応するくらいの温度ではありますが・・・気に入っている昔のアルバムの曲が、いくつもあるのです。
ライヴの記録を付けたり、CDのご紹介をしたりする時にはあまり気にしないで書き進めておりますが、今回ばかりはリストの作成自体を考え直そうかと思いました。
そのブロガーさんは演奏者の名前こそまだご存知でないものの、私の音楽嗜好をご覧になって眉を顰められるのではなかろうかと、何だか乾いた気持ちになってしまいました。もう既に、見限っておいでかもしれませんけれどね。
でもそれは、どんなものにも言えると思いますし、ブログに限ったことではなく日常に価値観やレベルの格差は溢れています。
実際、私の母はライヴのチケット獲得に血眼になり、関西や九州にまで飛ぶ私を理解できないと言いますし、私がラルクを好きになり始めた頃には、テレビを見る度に微妙な(好意的とは言い難い)コメントを連発するので「私は好きなの!」と主張する気すら削がれてしばらくファンであることを黙っていたくらいです。
それでも、今の母は私や妹、家族が好きなものについて批判的なコメントはしたとしても、価値観ごと全否定するような暴言を吐くことは滅多にありません。
家族という社会の秩序を保つための妥協かもしれなくても、その心遣いがどんなにありがたいか、私たちの気持ちをどんなに楽にしてくれていることかと思います。
個人的に気に入らない、それ以上に、多くの意見として好ましくない・良いとは到底思えない、というようなものごとは、どの人にとっても少なからず存在していることでしょう。
それを、いちいち「気に入らないから」「あり得ないから」などと攻撃していたら、・・・恐ろしいです。

私はどちらかというと、面と向かっている時もそうでない時も自分の意見を曲げることはしたくないと思っております。
でも、秩序のために妥協することが即ち意見を曲げることとは、微塵も思いません。
言いたいことを言いたいままに吐露した場合に、どんな立場の人がどのように思うかというのを、少しだけでも考えてみてから言葉を選ぶのが、人に対して・・・社会に対して言葉を発する時の原則だと私は考えております。
1対1でも、ごくごく大切な事柄です。
これを・・・このような世界万人が閲覧できるところで実行するとなると、本来は質・量共にとんでもないレベルでの配慮が必須となります。
冒頭でも申し上げたように、そのような非常に崇高で理想的な人権主義を掲げると、表現というものが破綻に限りなく近い状態に追い込まれます。
ですから、ストレートな表現や過剰な表現を避ける=婉曲という、いわゆる日本人の得意分野が表現の自由を確保するにあたって意外と貴重な手法となるのではないかと思うのです。

とても回りくどい申し上げ方をしていて、それこそ婉曲ばかりのこの文章ですが、ごく簡単にまとめてしまえば「正直に言うのは大切だけど、言葉の選びようはないものだろうか」ということです。
これは、私の性格が影響しているのだと思いますが、基本的に好きなものや楽しいもの、それから知ってほしいものにできるだけ限定してブログを構成しております。
嫌いなものがたくさんある訳でもないし、それをわざわざお知らせして嫌い同士で悪口を言い合ったりするのは好ましくないし、元よりそういう記事は必ずどなたかを傷つけることになりますからね。
何か嫌なことがあった時にも、感情より事実と因果とを伝えることを優先したいと・・・思っております。うまく実行できているかどうかは、少々自信がないのですが。でも、社会通念として明らかにおかしいと感じたことに関しては、傷ついたり反感をお持ちになる方がいらっしゃると分かっていても敢えて記事にすることもございます。今回のように。
嫌いなこととか、気に入らないこととか、どんどん書くことは良いことだと思います。好きなことを書くのと同じくらい、大切だと思います。その方の価値観とか、ご経験とかが反映された、その方ご自身の分身となるでしょうから、それを見てたくさんの方々が共感したり、疑問を持ったりという意識の交流が活発になって、それは素晴らしいことでもあります。
しかし、一方で痛切に感じます。
その言葉は、万人に向けて等しく責任を持てるものであるかどうか。
私自身、全てに細心の注意を払って記事を書いている訳ではなく、後で眺めてみて「まずいな」と記事ごと下げることもございますし、あるいは全然思ってもみないところで多くの人を傷つけているかもしれません。
1つだけ、確信を持って申し上げられることは、音楽をはじめとした好みに対して非難したり否定的な意味合いを持つ記事だけは書かないようにしている、ということです。
自分自身が、昔何度か気まずい思いをしたためでもあります。
移動中の車の中で、同じアーティストの曲ばかり流れるので「○○ばかりだね」と飽き気味に隣の友人に話しかけたら、「私・・・好きだから気にならなかった」と言われて、本当に申し訳ない気持ちになったことがございます。
それから、『浸食』が売れに売れていた当時は曲が怖くて仕方なくて、他の子に「あの曲を給食中に流すなんてどうかしてる」と愚痴をこぼした過去も持っております。今では好きな曲ですが、それ以来BGMを選ぶ時、その雰囲気を損ねるものは好きな曲でも除外すべしという鉄則が私の中でできあがりました。人の好みを、不特定多数に押し付ける行為に他ならないと感じたからです。耳は食事中は普通塞げませんからね。
ブログは、個人の言葉を不特定多数へ発信するには有効な手段です。厖大な数の内の1つでしかない、小さな小さなここにも、私が全く把握できないたくさんのご訪問をいただきます。通りすがりだったり、検索で飛んでいらしたり、度々チェックをしてくださったり、色々なお客さまがいらっしゃいます。
PCでご覧になると、私が貼り付けているプラグインや至るところに記されたライヴ日程などに辟易なさる方もおいででしょう。私が一押しのフレーバーティーの香りがきつ過ぎて、「この人の神経が分からない!」と身震いされる方もおいででしょう。自分の好きなものを苦手な方が、ここをご覧になって不愉快になられるのは不本意ですし、悲しいことです。
でも、私は自分の苦手なものについて書いて、見も知らぬどなたかに傷つかれる方がずっと辛いです。書かないようにしているのは、そのためですが、元々書く気がないからでもあります。
好きなものの一般的なマイナスイメージについては何となく理解できることもあるので、もし苦手な方と意見の交換ができたとしたら、それなりにお話はできると思います。逆に、苦手なものについても同じことが言えます。悪いところばかりしか見えない、または見ようとしないのでは、コミュニケーションを取ろうとしても無理が生じます。
私の表現の特徴の1つかもしれない婉曲ですが、それを拡大しますと、「ポジティブな表現に変換する」作業が浮かび上がってきます。最終的には、「とにかく良いところを見つける」ことです。
何か気に入らないとか、嫌なところばかりが目立っていても、色々観察していけば個人的に面白く感じるところや一般的に受け入れられている面など、良いところはあるはずです。
嫌なものについてぐちゃぐちゃと綴っただけの文章より、良いところに目を向けた上で苦手な部分に触れるという方が、読む立場からしてみても読みやすいと思います。
あ、何だか国語の説明文か何かの授業みたいな、程度の低いことを申し上げているような気持ちになってまいりました。
そろそろ止めましょう・・・。

書き手にある自由と、読み手にある自由。
その文章に相容れないものを感じたり、悲しくなるようなことがあったなら、読み手は黙って撤退すれば済むことかもしれません。
ただ・・・書き手の方が強い立場になりやすいことと、
読み手の顔1つ1つが見えづらいブログで発信する時に、画面でなく顔と向き合っている意識を持ち続けられるかということ。
思想・言論の自由は書き手だけが持つ特権ではない・・・と思います。
私はコメントを控えましたが、本当にそのブロガーさんに対してそれが誠意だったのかどうか、ふと考えます。
ただ、どう見積もっても、その方は私よりも経験豊かな“大人”でおられます。選挙に数回しか行ったことのない私が生意気を申し上げて世間が頷くような、情けない方とはお見受けしませんし・・・。お会いしたことはありませんが、幅広く楽しい話題を提供してくださる、素敵な方なのです。それこそ、今回の件は真っ正直に批判をなさっただけのことでしょう。
たった1度くらい、自分の好きなものが軽く批判されたくらいで通うのを止めるのも大人気ないことですから、これまで通りお世話になることと思います。
でも、私はそのブロガーさんに少々卑屈な思いを抱きながら通い続けることになるのだろうなと考えると、・・・番組表など調べなければ良かったと悔いるのです。


毎度ながら、このような記事を突然ぽいっと投げてご迷惑をおかけいたしております。
殊にネット上のオープンな表現に関して、「違法」なものだけではなく、基本的な言葉そのものに対しても、もっと慎重にならなくてはいけないのではないか、という疑問を改めて文章にしてみました。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。