高校1年のときだったか、暑い晴れの夜
珍しく夕食時に父が食卓にいて姉と母と4人でお夕飯だった。

 テレビはいつもどおりNHKだった。 

おいビール、って父が言って母はビールとコップ持ってきてさ。瓶の栓開けたんだわ。 

そのタイミングでNHKが緊急速報を流したんだよね。飛行機が墜落したらしい。

長野と群馬の山らしい。って。

我が家はフリーズ。
お父さんは警察官だったんだよ。当時群馬県警察本部にいた。

だからこれ他人事じゃない話だった。 


数回ニュースが流れたところで立ち上がって、
『おい(本部に)送ってってくれ』
って母にいって、半袖のYシャツに着替えて母の運転で職場に行った。

 それから約二ヶ月私は父を見なかった。 


 父は概ね24時過ぎに帰宅、朝5時前に出勤してたらしい。母の送迎だった。いわく『運転してて眠るのが怖いから』。本部に送ってってそこから乗り合わせで藤岡にいき、働いて本部に帰って母が迎えに行く。もちろん休日は0。曜日無関係。それが約二ヶ月続いた。




 遺体安置所となった藤岡市立体育館(当時)がこの事故での父の職場で、肩書は広報。『遺体の身元が判明し◯◯さんと確認されました』と発表したり。。。遺族との折衝、JALとの折衝、拾われた遺品をどうするかなど。 


 最近知ったけど
マスコミが近くの鉄塔に登って体育館の中を撮影しようとしたんで 

やむなく窓を閉め切ってカーテンをおろしたそうだ。 

室内は40度を超えて500を超えるご遺体。 

最後のご遺体は10月初旬まで置かれていた。

そこが父の職場だった。 


涼しくなってから家に高校から帰ったら 

だから4時とか5時とか夕方だったんだけど 

自宅におじいさんがいた。 

シワだらけ、真っ黒い覇気のない顔、ヨタヨタあるく背中の曲がった榛名のおじいちゃんがなんでうちに⁉️と思ったら

父だった。 



以降この事件について20年以上、
我が家では、語られることがなかった。 

ニュース聞いてて、この件になると全員黙り込む。

 新聞の記事についても一切コメントしない。 

4人の会話に一切登場しないんだよ。 


 4人でいるとき以外も
私も誰かがこの話題にふれても返事できなかった。 


 だから多くの書籍が発表されたり
テレビ特番が組まれたり映画になってても
一切見ず聞かず。

 これをトラウマ現象と言うんだよね。 


 数年前このときのことを父に質問始めたのがキッカケだった。

上毛新聞の記者さんが私の自助会を取材してくれて、この記者さんが『県外出身者なんで土地勘がなくて。ネタくださいね』って言い出して。

で、記事といえば。みたいな感じで父にボソッボソッっと聞くようになったんだよね。 

 

しばらく経って『上を向いて歩こう』を聞けない自分に気づいたんだわ。 

かかると席を外す、聞こえないふりをする。など。

これと事故が自分の中で繋がってるのに気づくのに数ヶ月かかった。

事故がね、つらすぎて思い出したくなかったんだね。思いだすトリガーを生活から弾いてたんだよね。 


その後私は大学にいき
いろんな理由で鬱になり

自傷を繰り返し

依存も凄まじく

心のケアを必要とするメンタル疾患者になった。


恢復の過程で忘れていたたくさんの記憶の中に

この事故があったのに気づいたのは

今年の5月だったか。 

 

件の上毛新聞記者さんと数回話して自分が

あまりにも事故について知らなかったことを自覚し

知ろうと思ったんだ。 


その時までこの碑があるのすら知らなかった。
ネットで初めて事故をググったのが今年に入ってから。


いや〜。出てくる出てくる。陰謀論、隠蔽論。 


 そして御巣鷹そのものでなく
私に関係ある場所に碑ができてることも知った 

 私は好奇心が動いて
碑を見に行ったんだよね。自宅から40分ほどのとこ。 

そして強烈な印象を受けたね。藤岡市長(当時)の文章に。 


 帰って数日考えて
実家の父に突撃取材した。

まあ気分はブンヤさんだよ。 

スマホにボイレコのアプリいれて。 

もしかしたらこの件について最期の会話になるかもと思いつつ。 


そりゃね。。。強烈な内容だったよ。 

陰謀論に多少脳みそを犯された私が変なことを訊くもんだから 

時々記憶の中を探りながら父が正確に伝えようとした当時の様子は
生々しかった。 

私は迷走した。 

これまじ記事になるんじゃね⁉️ 

日航機事故新たな真実⁉️って感じで。

 父に持ちかけたけどケンモホロロだった。 

試しに連絡してみた、上毛新聞記者の、
社会部の記者さんはノリノリだったけど。
(発達自助会を取材してくれた記者さんは県内遠方の担当に異動してた)


あれから3ヶ月。 

私は幼少期からのアレコレ、過去を一気に清算しつつある。 


飯島 波奈 さんのゆるゆるしたグループに
思い切って飛び込んだことで
広がった人間関係 

これ大きかった

入村 るぴな さんのインナーチャイルドワークやったの大きかった
もうガツン☆って感じだった
インチャイワークはオンライン、リアル、本でで
複数名に教わってて
デキてたつもりだったけど

質が違った。 

バイオハザードでコルト・パイソンや
ベレッタでチビチビやってたのを

RPG7で
ドッカンてやった感じだよ 


るぴなさんのワークのキモは
感情処理方法(感情消化)をものすごい精度で展開してること。 

自分でできるようにもなること 

いやこれすごかったよ
トラウマは抑圧。抑圧と投影。
(結局抑圧と投影って依存の一形態) 

トラウマ発生時起こった感情を感じられなくなって残ってるのを
感じきること 

そして日々続けること
今の本物の感情も感じられるようになる。 

エゴとか、遺されたインチャイの叫びとか

自分の足を、成長を、癒しを
引き止めて現状維持しようとするものとの対峙。


自分自身を生きる勇気。



それで縁があってもう一回
藤岡に行ってきた。

碑を見に。 

すごいシグナルがあって呼ばれた感じ。 

碑はかわらず其処にあった。 

犠牲者を悼み遺族に哀悼を示し 

当時の消防、自衛隊、警察、医療関係者、日赤

多くの多野藤岡のボランティアへの
想いを市長が綴ったものだった 

数ヶ月前に見たものと変わらず 

御巣鷹山、上野村を向いて
ただ建っていた 


帰ってハタと気づいた


私は寂しかったのだ

父が家にいなくて悲しかったのだ 

日本全土死に覆われたような雰囲気の中で 

父もそれに飲まれるのではないかと 

怖かったのだ 

 父への突撃インタビューはたしかに 

内容は結構センセーショナルだったが 

私が聞きたかったのはそこじゃない 

言いたかったのもそこじゃない 


激務をお疲れ様お父さん 

この世にぽっこり現れたようなあの地獄、
阿鼻叫喚、修羅場を
生きて帰ってくれてありがとう 

私はあなたが本当に誇りだ
あなたの娘であることに心のそこから
誇りを持っている

ありがとうお父さん。 

ここまでごめんなさい。 

本当に本当にありがとう。 


 弘パパ。愛してる。