マクロビオティックの盲点5 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

何百万年も続いた狩猟採取の時代から農業中心の時代になって人間の食生活は一変した。

主食が小麦や米などの穀物やイモになり、加熱加工食の大量摂取となったからだ。

野生の猿にご飯ばかり食べさせるとアミラーゼを出す機能が備わって来るように、人類の機能も対応を迫られた。

体の細胞組合は、「ご主人様・・ええ加減にせ~よ」と嘆いていたかも知れない。

人間は菜食、穀物、加熱食を選んだ時から体にご迷惑と負担をかけるようになった。

そもそも加熱自体が動物の食の道理に反し、主食の生肉が焼き肉になって大変なところへ、パンやパスタやご飯など大量の加熱穀物、野菜となればさらに大変で、それらが食の中心になれば代謝センサーが狂うのも仕方ない。

それが毎日玄米となれば、さらに大変なことは言うまでもない。

地球上の生き物は例外なく生食が大原則、これまでの進化と違い原則を曲げたこればかりは完全に順応するのは不可能。

体は何とかやりくりしているが穀物菜食の量が増えるほど一時しのぎも限界だろう。

1日や2日食べなくて、動けず苦痛を感じるなら空腹信号などのセンサーが既に狂っている証拠、1日3食バランス良くなど問題外であり無理を重ねた近代食から生まれた人間だけの道理だ。

今の満腹信号は単に胃袋にそれ以上入らないと言う、場合によっては苦痛を伴う物理的信号に過ぎず、消化にエネルギーを費やし、うんこは・・重く、生命は満たされず倦怠感だけが残る。

玄米菜食やご飯、パン、パスタなどが中心の食事がこれに当たり、これらの量が減るほどうんこも体も軽くなる。

信じられないなら試して見ればいい、お腹いっぱい食べて24時間食べなくても平気かどうか。

満腹になれば数日間食べないライオンやトラなどの肉食動物がそうであるように、エネルギー効率が極端に異なるのだ。

野人もご飯は好きだが少量、強靭な母同様に刺身、魚介や肉や卵など動物性たんぱく質が中心だ。

ご飯、穀物、野菜などは主食であるたんぱく質の副食と考えているし、パンは時々、食パンは年に一回買う程度、季節の木の実は毎年欠かさず、葉っぱは滅多に食べない。

猪は良く食べるが、むー文左衛門ミカンは十数個、ハッサク、キンカンは一個味見をしたくらいだ。

野菜が好きでむー農園を作ったわけではなく世に必要だから作った。

講習では生で試食するが、持ち帰って料理することはなく、必要とする野菜会員にすべて送っている。

野生の肉か魚とむー塩なら、少量食べれば満たされ、後は24時間食べなくても問題なく体力も知力も保て、たとえ思い切り食い溜めしても何の問題もなく体重は戻り安定する。

何も食べなくても、完全なバランスのむー塩だけでも食欲は相当抑えられ断食も楽になる。

ダイエットにも悪用出来るのだが根本的な解決は食でしかない。


これだけの人口を賄うのに農業は不可欠、現在の食文化は間違いではない。

人は農業を中心にして生きるしか道はないのだ。

この条件の中で本来の体に戻すには「無理」を減らすしかない。

減らすと言うことは必要なことから余計なことを除外する「引き算」。

本来の理に合わない食材を減らし、合うものを少しでも増やせばセンサーくらいは元に戻り、センサーが戻れば減食も苦にはならなくなる。

理に合う食材がまったく流通していないからこうして理を説き続けている。

合わないものが、楽して簡単に合うようになる道理が協生理論。

その中で今の食文化を謳歌すれば良いではないか。

松阪牛だろうがカップラーメンだろうがかまわない。

玄米が好きならたまに食べるのは問題ないが常食はあまり感心しない。

身も心も軽くはならず、うんこばかり重くなってリスクも重くなる。

体も機械も同じで、過負荷になれば故障もするし寿命も縮まるのが道理だ。

その覚悟で食べるならとやかく言うこともないが、玄米は嗜好品の一つと考えた方が良いのではなかろうか。


続く・・



野菜に品質を求めた農業1

http://ameblo.jp/muu8/entry-10600639799.html

野菜に品質を求めた農業2

http://ameblo.jp/muu8/entry-10601171914.html


生食は人間本来の食1

http://ameblo.jp/muu8/entry-10663164898.html

生食は人間本来の食2

http://ameblo.jp/muu8/entry-10663202488.html

生食は人間本来の食3

http://ameblo.jp/muu8/entry-10663452630.html