春に新芽が出て、5月頃最初に摘む新芽を新茶と言う。
時間との勝負で、やや育った茶葉、次の部位と、時期的には1番茶には違いないが味と価格に差が出て来る。
この時期は一番柔らかくキメの細かいお茶になり、初夏、夏、秋と荒くなる。
それは茶の香りの差でもあるが、当然と言えば当然だろう。
エネルギーを蓄え休眠から覚めた植物は春に一気にエネルギーを発散させる。
摘まれて葉が足りなくなれば次々に芽を出すが春の一番新芽には及ばない。
新芽の香りは生命力が生み出す香りとも言えるかもしれない。
早く立派に育てたいのは生産者の願望であり、それが農業の常識、お茶も例外ではないが、消費者の立場で考えればそれで良いのだろうか。
植物の意思ではなく肥料で膨張させたり、発育促進剤のようなもので急がせたり、商業の道理には適っても自然界の道理には適っていない。
人が手を加えることでその植物の本質が変らないのなら問題ないが、そのようなことはない。
不自然な細胞はそのまま放っておけば虫によって大打撃を被るからさらに薬を使ってそれを防ぐ。
傷のない商品を作ることに徹した栽培が自然の恵みと言えるのだろうか。
不自然、不完全なものを消滅させようとするのが自然界の力なのだ。
新茶が高価だからと言って努力して目方を増やす気はない。
それらは植物自身が決めることだ。
同様に甘いトマトや美味しい野菜を作る気もない。
無茶人の道理は単純、命ある植物に人間の道理や科学を持ち込むつもりは元からない。
足元にも及ばないことを知っているからだ。
工業製品、商業製品のように品質の安定を望むことのほうがおかしい。
毎年味が微妙に変っても仕方ないではないか。
旨いかどうかはともかく、不味いということはまずないはずだ。
それなりに美味しくいただければ良い。