半年後に八重山諸島の小浜島へ転勤、次は三重へ行けと言われて屋久島へ戻り、待っていた4人のクルーと船に家財道具一式積み込み屋久島から志摩へ向けて出航した。
家財と言っても本と衣類と棒とトンファとヌンチャクとモリくらいしかないのだが。
転勤は通常では辞令をいただくのだが野人はトップダウンばかり。
つまり、電話1本で済ませてしまう省エネ辞令。
小浜島では午後3時頃海水パンツでセールボードを教えている時に浜松本社の常務から電話があった。
「いつまで?」と聞くと・・「今すぐだ」
「辞令は?」と聞くと・・・「そんなもんいらん」
この島に来た時もそんな調子だったがまあいい、野人だけに通用する辞令だ。
こんな調子で、5年間で8回の転勤があった。
その日の夕方の船便で荷物を送り、翌日の朝礼でさよならのご挨拶、指示が出て18時間後の転勤だった。
屋久島では回航クル―4人が既に出航準備を整えていた。
桜島の溶岩に囲まれた要塞のような入り江で台風をやり過ごし、日向灘、豊後水道、瀬戸内海、紀伊水道を経て4日目の昼に志摩のヤマハマリーナへ入港した。
ちょっと時間がかかり過ぎたのは、ついでに故郷の大分の実家へ入港、そこで5人でドンチャン騒ぎ、翌日は母や近所のおばちゃん乗せてクルージングをサービスしたからだ。
まさか会社の船で里帰り出来るとは思わなかった。
理ターンマッチの機会もなく南西諸島を離れることになってしまったのだが、その機会は10年以上経ってから2回訪れた。
検挙から2年以上経ってから三重の検察への出頭命令、判決が下った。
あのときの敗戦はここまで尾を引いていたのだ。
罰金も道路交通違反の比ではなく、当時としては気が遠くなる額を言い渡されたが・・請求書は会社へ回した。
宵越しのお金を持たないタイプの船乗りで無一文だったから仕方がない。
給料全額渡しても数カ月はかかるだろうしロ~ンもきかない。
禁固刑に服すか罰金を払うか、その判断を会社に託したのだ。
正直・・どちらでも良かった、仕事も休めるし。
「これ・・・払っといてくれ・・」と経理の机の上に置いたのだが、事業所が違い事情を知らない経理責任者は請求書を見て・・
「な・・なな・何ですか! これ~~!!」
と・・テノールな声を張り上げ喜んでいた・・
ようには見えなかった。
何やら後ろで未練たらしく言っていたが風のようにその場を去った。
野人は悪・・いや英知をしぼって最善の策を選んだ。
天命を尽くして決済を待つ、こんなことに全力など尽くしたくはない。
すべては成るようにしかならないものだ。
その顛末は東シナ海流の終盤に書く。
続く・・