硫黄島で俊寛 中村勘三郎 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

ニュースでやっていたが歌舞伎俳優の中村勘三郎が硫黄島で「俊寛」をやるらしい。

硫黄島は「薩摩硫黄島」「鬼界ヶ島」とも呼ばれ、鹿児島の南100キロに位置する人口100人強の活火山の島だ。

この島には俊寛の他に、源為朝や有王などが流された。

野人は25歳の頃、この島に住んでいた。

当時、ヤマハの施設と飛行場があり、諏訪の瀬島からこの島へ転勤、半年後にそこから船で1時間の屋久島へと転勤した。

横溝正史の獄門島が映画化、そのラストシーンなどの撮影の為にチャーターされたクルーザーは硫黄島にちなんで川上源一が命名した「為朝丸」で、野人が船長を務め屋久島から出航した。

硫黄島で深夜、徒歩で山を下り亡霊の集まる浜に潜り、巨大伊勢海老をしこたまかついで帰って来たが、当然のように・・・伊勢海老よりも亡霊達の数の方が多かった。

亡霊ごときが怖くて夜の海には潜れんし旨いものも食えん。

その時から島の人達の野人を見る目が変わった(笑)

その後の屋久島駐在時、ダイバーだけでなく、毎日のように鹿児島の枕崎港を深夜2時に出航、硫黄島を始めトカラ列島の島々を舞台に「離島遠征磯渡し船」の船長もやった。

大半は片道3、4時間の日帰りだが、長い時で三日から1週間の航海だ。

十数人分の食糧や氷の積み込みだけで大変、氷だけでも1トン以上。

遠征クルーは3名、野人は船長だけでなくコック長も兼務、朝昼晩と適当に作った。

この硫黄島でヤマハ施設がお客様に持たせる弁当は「俊寛弁当」で、今でも思い出すくらい旨かった。

竹の皮におにぎり、卵焼き、唐揚げ、キャラブキ程度の普通のものだったが、当時の社長「川上源一」と一緒に何度か船の上や磯で食べていた。

竹皮の抗菌力で、早朝から真夏の炎天下に晒し、残りを夜に食べても腐ってはいなかった。

どうしても俊寛弁当を今一度食べたくて「竹の皮」を用意したばかり。

ブログでも紹介するつもりだったのだ。

卓上の竹の皮を見ながら数十年前の硫黄島と俊寛弁当の記憶をたどっている最中、テレビの、しかも夕方のニュースから硫黄島、俊寛と言う言葉が流れる確率はどれほどだろうか。

違いは・・歌舞伎と弁当・・だけだ。



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