気の科学25 野菜の生命力 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

植物の生命力はすべてが理に適ったもので、ある固体だけが突出しているわけではなく、松には松の、竹には竹にふさわしい生命力がある。磁場が良いからと神社の松が特別ということもない。小さいうちも大きくなってからも力は同じで大きさに比例している。つまり体とのバランスがとれている。植物の寿命は限られているが、何億年、何万年もかけてその時代の環境に合わせて意識も体も進化してきた。つまり今現在のものが最高の形なのだ。だから災害はあっても自分から自滅するような病気はない。あるならばとっくに絶滅している。

人は何万年も植物の採取の時代が続いた。栽培が始まったのは歴史から見れば微々たる期間だ。栽培は豊かさと同時に「負の欲」も育んできた。栽培された山菜が改良され野菜となり、生きる為の糧が、利益を求める「商品」になった時から本質を見失い、独自の道を歩き始めた。「雑草との戦い」は今に始まったものではなく、何千年も繰り返されたことだろう。科学は雑草の排除をある程度克服したが、今に至っても勝てない。勝てるはずなどないのだ。

そもそも「雑草」と決めてしまったことが農業の間違いの始まりだ。「雑草が繁れば野菜が出来ない」と言うが当たり前のこと、野人もそう思う。しかし「雑草がなければ健全な土壌が出来ない」のだ。比較すれば困る事などはその足元にも及ばない。世界には雑草すら生えない不毛の大地が山ほどあり、何千年何万年の時を経なければ変わることはない。

耕す事は間違いではない。邪魔な石や木の株や根をどけて環境を整えなければ理想とする収穫場は出来ない。間違いは毎回掘り起こすことだ。理由は単純で、土を柔らかくする事と、繁った草の根を取り除くこと。それは、柔らかいほうが早く育つ、邪魔な草も育ちにくいという理由だ。自然界を見て、それがおかしいと思う人は一人もいないのだろうか。農業の歴史が何千年あろうが、自然の中で育った野人から見ればおかしいものはおかしい(笑)。農学もそこから始まっているから話がまるで噛みあわないのだ。人が耕して柔らかくした土は重力と雨の重みで必ず硬くしまり元に戻る。いくら草の根を排除しても種からいくらでも生えてきて巨大になる。これも当たり前だ。草が野菜の養分を奪うなら自然界のように次から次へと重なるように植物が育つのは間違いなのだろうか。

土質や気候に合わせて多くの草や微生物や虫や鳥や動物が協力し合って土壌を作って行く。

それが数億年の進化を持つ正常で健全な土だ。その環境を多くの生物が譲り合い、競い合いながら共存しているのだ。生命エネルギーはそこから生まれるもの。生命エネルギーの源は土壌にあるということに気付かないのだろうか。土壌に生かされ育てられてきた人間が、他の生物を排除して土壌を作る、野人にはまったく理解出来ない世界だ。神様にも出来ない事が人に出来るはずもない。その為にどれほどの頭脳、労力、資源を浪費し、いつまで戦い続けるのだろうか。妙なものを作って食べて正常な生命エネルギーが得られなければ体の細胞が維持出来ないのは当たり前のこと。さらに自分が招いた病気と闘い、医学もムチ打たれ、また無用な浪費を続ける。何で健康補助食品が必要なのか原点から考え直してみれば良い。食いすぎとは感じても食い物が足りないとは到底思えない(笑)。悪循環が加速しているようだ。次回は化学肥料と有機肥料の違いについて話す。