たった一人の武士道 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

大分県で生まれ、18まで暮らしたが、隣の佐賀、鍋島藩士、山本常朝が記した「葉隠れ」の中に有名な言葉がある。

「武士道とは死ぬ事と見つけたり」

これは色んな場面で引き合いに出され、解釈も様々だ。

死を選んだ三島由紀夫も葉隠れに心酔していたようだ。

九州男児という言葉も、葉隠れの武士道と他に鹿児島の西郷隆盛、熊本の加藤清正、福岡の黒田如水長政などのイメージから出来上がったものなのかも知れない。

また新渡戸稲造が明治33年に「武士道」を英文で刊行、世界に広めた。

人それぞれ武士道に対する思いはあるが「葉隠れ」は山本常朝自身の思いであり、「武士道」は新渡戸稲造の思いがこもっている。

内容に対しては何も思う事はなくコメントもない。

とやかく言うことでもないと思っている。

ただ、「自分自身の武士道」は持っている。

誰にも話したことはないが、このブログに少しづつでも書き記していきたいと思っている。

たぶんそれは誰にも理解出来るものではなく参考にもならないだろう。

だから「たった一人の武士道」であり「一代限りの武士道」なのだ。

人は皆、心の中に「自分道」を持っている。

その時代の武士の立場で考えた「自分道」が「武士道」と言う言葉になったのだ。

先のブログ「武道と武術」にも書いたが、これはまったく別個のものだ。

字を見ればわかるが、武道はルールあるスポーツだが、武術はあくまで物理的な技術で目的も違う。

心技体とは、戦いの心構えと、技の必要性に合わせて体を鍛錬することだ。

礼儀作法と武術は次元が違う事であり、国語と数学みたいなものだが、取り入れること事態は武道に限らず何の問題もない。

野人は生きる為に武術を選んだ。

は自分だけのものであり、人の指図は受けないし教えを請うことは絶対にない。

たとえ流派の最高師範と言えども屈する事などはない。

先輩に対してそれを堂々と口にする門下生など他にいなかった。

子供の頃から「反逆児」だったが、弱いものいじめも自分から暴力を振るう事もなかった。

武術を始めた当初から、不要だと思った技も練習もやらなかった。

良いと思うものは少林寺だろうが合気道であろうが取り入れ、ボクシングのフットワークも学んだ。

礼儀作法、集中力、精神力は他のスポーツも、サークルも皆同じであり武道だけのものではない。

精神力を鍛えるならばどんなものでも良い。

バスケットであろうが野球であろうが差はないはず、すべて礼に始まり礼に終わる。

学校も会社も同じ事、そのように考えられないのだろうか。

武道は武術をルールを決めてスポーツ化したもので、あくまでスポーツなのだ。

ボクシングの歴史も元はスポーツではない。

拳闘と言う言葉からもわかることで素手の戦いだ。

武道と同じように長年心血を注いで汗を流してきた競技には皆同じような強い思い入れがあるはずだ。

育った環境のせいかわからないが、子供の頃からスポーツというものには全く関心が湧かなかった。

生き甲斐を見出さなかったのだ。

海で鍛えられ、体力も神経も恵まれてはいたが、スポーツで勝ちたい、うまくなりたいという気持ちにはなれなかった。

無理やりやらされた水泳でもらった賞状は捨ててしまい、県大会優勝のメダルなども近所の子供にあげてしまった。

新聞の記事も含めて収集する趣味もない。

今も、写真も含めて過去の記録など持ってはいない。

死ぬまで徒手空拳で良い。先生から、タバコやめて人並みに練習すればオリンピックも・・と言われたがその気にもならなかった。

武道やスポーツを冒涜するつもりもなく、自分の意思で道を選べば良いことだと当時から思っていた。

何故、生きる為に武術を身につけたかは徐々に話していく。

社会に出て、身につけた当初の目的も方向も逸れてしまったが、結果としてリングも畳もルールもない戦いをしてきた。

本当の意味での実戦で仕事柄やむを得なかった。

争いは嫌いだから心が荒び、飲めない酒を飲み続けた4年間だった。

それ以来酒は飲んでいない。

ルールもなく、凶器も相手にして、複数の敵も、外国人も・・・たしかに「心技体」が身を守るが礼儀作法ではない。

戦いは人間相手より大自然、嵐と海の脅威のほうがはるかに大きく、「心技体」の考えが一番役に立った。

何故なら、「戦っても勝てない」ことが最初からわかっているからだ。

武道と武術の違いは修羅場をくぐった時に身に染みてわかることだ。

治外法権のような状況では警察の助けも来ない。

生きる為に倒す技と、競技で勝つ技は根本から違う。

絶対に勝てる事のない自然界からも多くを学んだ。

肉体はボロボロになったが、魂は屈することはなかった、子供の頃と同じように。

「武士道とは死ぬ事と見つけたり」・・この言葉は戦いにおける心構えだ。

その心境になれなければ戦わないほうが良い。

我が身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるということだろう。

武士道とは死ぬ事が目的ではない。

使命をまっとうする哲学であり自分で道を選べばよい。

人は死ぬまで戦い続ける。

武術に限らず、生きるということはそういうことだ。

最大の戦いは「自分との戦い」だろう。

勝つも負けるも自分次第、志を持つも持たぬも、誓いを立てる事も破る事も自由なのだから。