戦争はいつの時代も悲劇しか残さない。
太平洋戦争も多くの死者を出し、家々を焼き尽くし、戦災孤児を生み出した。
軍需工場があった天草も爆撃を受け、焼け出された孤児がたくさんいた。
小さい頃からご飯を残す度に幾度となく母からその話を聞かされた。
食料は十分ではなく配給のさつまいもが多かった。
父方の祖母は何人かの孤児を集め、自分の食料を来る日も来る日も分け与え続けた。
配給の芋を何等分かして、「これはお前・・これはお前・・」と。
そして何も食べず日に日にやせ衰えていった。
心配した家族が食べものをまわすとそれも孤児に分け与え続けた。
そしてそのまま静かに餓死の道を選び、息を引き取った。
葬儀の日には孤児が集まり、いつまでも泣いていたらしい。
母はこの話をする度に、義母の死に顔が仏様みたいに微笑んでいたとポロポロと涙をこぼしていた。
世界的な空手の創始者の本に書いてあった。
「人にとって一番怖いのは飢えることであり、飢えは人を変貌させ、争いを生む。人は飢えを満たすために平気で人を殺す」。
祖母は強い意志を持っていた。それは人間としての慈悲の心。
人の心は本能をも超越できる強いもの、そこが他の生き物とは違うところだ。
母方の祖父母もまったく環境は違うのに、ひもじさに耐え切れない子供達に食べものを分け与えていた。
祖父母は台湾へ渡り花連で建設業を興した。
鉄筋の建物がない当時、火災に苦しむ台湾の人達の為に私財で消防ポンプなどの機材や設備を揃え、初代の消防所長を引き受けた。
母は台湾で生まれ、大分の女学校を出て台湾へ帰り教師をしていた。
台湾には貧しい子供達が多く、満足に食べるものもなかった。 子供達は空腹に耐えられなくなると家に来ていたらしい。
十数年前、社員旅行で台湾へ行った時、母が教え子に電話したのか、ホテルまで次々と面会が来て食事に連れ出された。
台北大学の数学の教授夫妻、実業家、通訳・・食事しながら当時のことを聞かされた。
「台湾は日本の植民地、日本人の多くは心のどこかで台湾人を見下していた。
でもあなたのお祖父さんお祖母さんお母さんは決してバカにしなかった、
本当に優しかったよ」・・「ひもじくて苦しくて、生垣の外から覗いていたら、いつもお祖母さんが手招きして・・梁や入っておいで・・とおにぎりを食べさせてくれた。いつも泣きながら食べていたヨ」・・
「お母さん、台湾へ連れて来て欲しい、恩返ししたい人台湾にいくらでもいる、生きているうちに出来なければ何年経っても子孫が引き継ぐよ、お母さんに返せなければ、子孫があなたに」・・・そう言いながら涙をこぼす。
そんな50年以上も昔のことを・・となだめたが日本人よりよほど義理堅い。 母からも聞いたことのない初めての話だったが嬉しかった。
子供の頃、喧嘩で相手を傷つけるとこっぴどく叱られたが、こちらが少々怪我しても心配などしない。
いつも傷口に唾をつけて終わりだった。
放っておけば治ると包帯も巻いてもらえず、友達の真っ白い包帯がやたらうらやましかった記憶がある。
なかなか母を連れて行かないので、何年かして彼らのほうから日本へ来た。
敗戦で、家族は何も持たず身一つで日本に引き揚げ、祖父は実家の畑に器用にも竹で家を建てた。
当時は珍しい話題の家だったらしい。
祖父は、「お前がこの川から海へ乗り出す船を作ってやる」と言いながら小学生の時に82歳で亡くなった。
大学で船舶設計を専攻したのもその時の言葉が頭にあったのかもしれない。
小さい頃、バカなことをやるといつも祖父を引き合いに出して母から叱られた。
祖父は無口だが、台湾でも日本へ帰ってからも、どんな争いも祖父の一言で治まった。
本当の意味での「侠客」だったと。
父は天草からの養子で、なかなかの美男子で射撃の達人だった。
婚約してから結核が判明、一族全員が結婚に反対した。
当時は肺病と言われ不治の病、その時祖父は母に「お前はどうしたいのか」と聞いたらしい。
母が「それでも一緒になりたい」と言うと、一族を一喝して結婚させたと言う。
そのことを母は心から感謝していた。
女の子が産まれたが父の結核に感染して二歳で亡くなり、次に男の子が生まれたが1歳で亡くなった。
野人が生まれてから父は用心して決して近づくことも抱くこともなかった。 そして1歳の時に世を去った。
母は寝たきりの祖父母と自分の面倒を見るために教師ではなく、食料品店自営の道を選んだ。
朝5時に店を開き年中無休、夜は九時まで働いていた。
夕食はその頃になるから、小学生の頃はいつも野犬の群れと真っ暗な山の中を駆け巡った。
山頂からふもとの灯りを目指して一直線に犬と駆け下りるのが得意で、崖を飛び下り、急斜面の藪を木から木へと。 犬の嗅覚は迷うことはない。
昼間、野原は野犬と放し飼いの飼い犬達十数頭で賑やかだった。 いつも彼らと遊び、相撲をとった。
シェパードやボクサーは思い切り投げ飛ばしたが、すぐに起き上がり飛びかかってくる。
野犬に子が生まれると給食のパンを残して毎日食べさせた。 飢えて、野犬達のあばら骨が浮き出てくると、山や海で狩りをして養った。
それでも足りなくなる冬場は、店の食品をこっそり持ち出して与えていた。
母はずっと見て見ぬふりをしてくれていた。
何匹か生き残った子犬もまた一緒に山を駆けた。
そしていつの間にか一人もいなくなってしまった。
保険所が仲間を次々に・・ 最後の子犬がいなくなった日、初めて大声で泣いた、朝まで。
野山はたくさんの宝物を与えてくれた。
自分の身を守るための本能も・・・
それから大人になり、何度か海で遭難しかけたがその度に生き残った。 本能は脳を活性化させる。
普段使わない機能のスイッチが一斉に入り、センサーが張り巡らされ、瞬時に分析判断が出来るようになる。
それが人間の潜在的な機能だ。火事場のくそ力とか第六巻とか言う言葉もよく使われる。
母はこれまでに、祖父、祖母、姉、兄、夫と5回も家族の最後を看取った。
まったく別の土地で育った両祖父が歩いた道、そして自分もまた同じ道を歩くような気がしている。
アジア、アフリカには治療すら受けられない子供達も餓死して行く子供達もいる。
世界の子供達が飢えずに済むように、環境を守る循環型農業の研究を続けているが、生きているうちには何とか普及させたいと思っている。