三日月を追いかけて・雛祭り墓参り編 3 | エメラルド

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好きなことや日々の雑感を書き綴ってます

だらだら過ごす連休1日目。

今日も雪降りでどこにも行かず。

振り返ると、今日一日何してたんだっけ・・・みたいな。

そしてまた、いつもと同じような時間に慌しくパソコンに向かう。

3月1日、楽しかったひなまつりの思い出の続き。


前回までのあらすじ。

お母さんの出奔した時期が記録と違う。

政宗毒殺未遂という公式の記録は、本当に正しいのか?



角田市のひなまつり特別講演会「政宗と母・義姫」

佐藤憲一先生の話は続く。


佐藤先生の話した内容そのままではありません。

レジュメと自分メモを見つつ、私なりにまとめた概要というか。

こんな感じのことを話していたのかもしれない程度にお読みください。



東京都あきる野市にある大悲願寺というお寺には、「白萩文書」というものが伝わっている。

かつて政宗が、寺の白萩のあまりの見事さに株分けを頼んだ手紙。

この寺の記録によると、大悲願寺15代住職の法印秀雄(しゅうゆう)という人物は、伊達輝宗の次男であり政宗の弟なのだそうだ。


伊達家の記録に、秀雄(幼名鶴若)の名は出てこない。

政宗、小次郎、夭折した女子2人、この4人が輝宗の子供であり、秀雄の存在は見当たらない。

かつては、異腹の落胤ではないかと言われていた。


政宗は秀雄の存在を知っている。

政宗の死後、秀雄がその法要を行っている。

秀雄が輝宗の子であることは間違いなさそう。


秀雄は、実は小次郎なのではないか。

殺したことにして秘かに城から出し、仏門に入れたのではないか。

出家とは、生きながら死ぬこと。


小次郎の処分は、政宗と母の共謀なのかもしれない。

当時は小田原出陣の直前で、政宗自身の命すらどうなるかわからない。

もしも政宗に何かあったら、伊達家の血統が絶えてしまう。

そんなリスキーな状態で弟を殺すようなことはしないはず。


伊達家の一本化を図るため、あえて小次郎を殺したことにする。

もしも政宗が死ぬようなことがあったら、真相を公表し小次郎が伊達家を継ぐ。

母もそれに同意して協力した。


この説は、佐藤先生の著書に書いてあるので知っていた。

そうであってほしいけど、ちょっと都合よすぎるかなーという気もした。

確証となるものは、今のところないわけだしね。

でも、著者本人の口から具体的な証拠を挙げられ詳しく語られると、より一層真実味が増してくる。


政宗毒殺未遂事件が偽装だったのなら、なぜ母は4年後に出奔したのか?

この事件の真相を知るのは、政宗と母、そして多分、片倉小十郎と小原縫殿助(小次郎の傳役)だけ。

政宗は、股肱の家臣たちすら欺いていた。


政宗が小次郎を殺害したという事件の後、政宗が茂庭綱元に宛てた手紙がある。

自分が弟を殺したのは、母から毒殺されそうになったからである。

このことはお前にだけ言っておくから、お前の判断で世間に広めてもいいというような、意味深な内容。


つまり、政宗毒殺未遂事件という噂を広めたのは茂庭綱元。

(綱元殿、まんまと騙されて使われてますな・・・)

従兄弟の伊達成実すらそのことを知らずにいた。

政宗がお母さんに殺されそうになったって噂が広がってるけど、マジか?!みたいな日記を書いている。

噂が徐々に広がっていき、居たたまれなくなった(あるいは、あえて噂を肯定するため)母は実家へ出奔する。


政宗と母が再会するのは28年後。

実家最上家の改易により仙台の政宗のもとに引き取られるのだが。

その時の態度が実に堂々としていて、毒殺未遂という後ろめたさが全く感じられない。


迎えに来た片倉重長に対して語っている。

あなたのお父さんのことはよく知ってますよ。

あなたも立派になったわね・・・と。

事件の真相を知っていたであろう片倉小十郎は、もうこの世にいない。


仙台に引き取られた翌年、母義姫死去。

政宗とともにいたのはわずか六カ月だが。

政宗の母として誇り高き大往生。

政宗は、手厚く母を葬った。



つづく



写真もないまま、だらだらと長い文章ですみませんな。

(しかも、人様の説をなぞってるだけ・・・)