今回のオリンピックは前回が一年遅れたために何かすぐに来てしまった感じです。

それはさておき私が歳をとったせいなのかだんだんとワクワク感が消えてきました。

ありとあらゆる娯楽が手軽に手に入る現在では人々の興味は色々な分野に分散され昔の紅白歌合戦のようにコタツに入って家族全員がああでもない、こうでもないとにわか評論家になり小さな子供はそのまま炬燵で寝落ちして、朝母親に雑煮の時間に起こされると言うような家族全体で楽しむイベントは存在しなくなったのかもしれません。

これは同時に万博にも当てはまり、私自身も18歳の時に初めて大阪万博に行きあれだけ沢山の外国人を観るのは初めてでした。

またあんなに沢山の人種を見るのは初めてで、例えば黒人の中にも茶色系黒人から、漆黒の人、灰色系、そのほか光沢系、艶消しとありとあらゆるタイプの存在を初めて知りました。

その当時は数少ない海外旅行番組で色々な人種の存在は知っていましたが現実に見るのは初めてなのでその日はほぼ一日中アフリカ館を見て周りました。

私個人的には各国の文化、習慣よりも人を見る方が面白くなんとなく人種博覧会の様な気がしましたが大変興味がありました。

また生まれて初めて岡本太郎氏の太陽の塔を見た時にはもともと芸術的センスのない私には何が何だかわからず感じ取ることも理解することもできずに唖然としたままでした。

あれから数十年を経て岡本太郎氏に影響を与えたジュアン・ミロの作品の一つのバルセロナにある『女と鳥」を自宅から毎日見ながら生活していますが今でも何となくわかったようなわからないような気分ですが世の中には私が理解、及び感じ取ることのできないものが無数に存在して、わかる人にしかわからない思想、感性が存在することだけは実感出来ます。

そんな意味でフランスは前衛的な国で今回のオリンピックをポリティカルクリティカ、LGBTqに全振りして開会式を行いました。

一部のフランス人の中にはフランス革命を世界の見本となる最高の民主主義であると考える人がいますが最近ではそれに歯止めをかける様に保守派の台頭があります。

それに危機感を持ったフランスの現政権はこの行き過ぎた思想のオリンピック実行委員会に全てを任せたのが今回のオープニングセレモニーです。

まるで神戸で行われた表現の不自由展の国際版の様な感じです。

いつも違和感を感じていますがLGBTQの存在は昔から理解しているつもりですがそれがなぜプライドになるのかが理解出来ませんん。

そんな人びとの存在が普通であることの方が重要だと思われます。

何事も強調しすぎると副反応が起こります。

さて今回のオリンピック実行委員会が許可したオープニングセレモニーは多くのキリスト教徒に対する冒涜と見做されました。

数年前にイスラム教のマホマを柔らかく風刺した漫画により襲撃事件が起きましたが、多分今世界ではイスラム教以外はパロディーの題材にしても問題はないという発想の様です。

最後の晩餐のパロディーなどは敬虔なキリスト教徒にとっては耐えられないものでしょう。

宗教に全く関心のない私でも、もし私がキリスト教の信者であればずいぶん傷つけられたのではないかと推測出来ます。

表現の自由は必要ですがその表現をするために他の多くの人々を傷つけることは表現の不自由展で感じた自己主張のためには他人を傷つける可能性も是とした発想と同じ様な匂いがします。

いつになれば人間は大人になれるのでしょうか?

追加で今思いついたのですが今スーポーツの世界などで自分を女性だと認識?しているお兄ちゃんが女子スポーツに参加したりして物議を醸していますが、今世界には自分を人間と思っているペット達(犬、猫、小鳥、猪、熊などその他大勢)が殺された場合若しかしたら殺人罪が適用されるのでは無いかと今思いつきました。

物理的に男性が自分は女性だと言い張る人と同じ権利が動物には与えられないのでしょうか?

こんな理論が発展していけば際限がありませんがどこかでそれを科学的、理論的、感情的に阻止する神の声が近々現れるのかも知れません。