今日もいつものようにテラスで酒を飲んでいます。

普通はウイスキーのロックが定番ですが飽きてくるとウオッカ、ジンジャー、グラッパ(オルホ)スペイン、ラム酒などいろいと違う味を楽しんでいます。そんな事で今日はたまたまラム酒の日です。

多分砂糖を絞った後にその残り滓を無駄にせず蒸留したものと思われますが、私は面倒なことが嫌いなので基本的にはストレート、オンザオックで飲んでいます。

さて今日酒瓶の隣に並べたのは今年実家から持ってきた富貴蘭に花が咲きました。

およそ1ヶ月まえにやはり実家の庭の松の木に生えていた風蘭(セッコク)を半分ちぎって持ってきてこちらの田舎の山で拾ってきた松の皮に貼り付けたところ外国の松にも関わらずうまく定着して花を咲かせました。

4年前に実家に行った時に同じ試みが失敗に終わり今回初めて成功しました。

今回は前回よりも大きな個体をもってきたことと同時に少し知識が増えていた事が成功につながったのではないかと思われます。

今回の花はセッコクの時とは違いほのかに薫る香芳がなんともいえない良い匂いで昔読んだパヒュームの小説を思い出しました。

そこで頭の中に浮かんだのが侘び寂びの世界です。

多分今までに何度かそれらの本を読んだのではないかと思いますが今では全く記憶にありません。

ただ昔は本を読んで理解していたことが今は感じることができるようになったのではないかと思います。

もちろん酒の力を借りながらではあります。

日本人が今の日本人の感性を手に入れたベースは数千年にわたる日々の生活が基本になっている訳で、人種、生活環境など少し変われば感性にも大きな影響を与えると思われます。

今の日本人の感性が存在するのはこれらの生活環境の集大成の上に成りたつ非常に微妙なバランスの成せる技であり唯一無二の存在です。

松尾芭蕉の岩に染み入るセミの声、古池や、、、、などを聞いたり、目にしたりすると何故か分かりませんが理解しようとする前に感じようとする行動が体内に起きます。

もしかするとこれが数千年の間に刷り込まれた我々のDNAの根源なのかもしれません。

海外に住みながら外国人に対して侘び寂びを説明するにあたり理性で説明しようとすること自体が不可能なのではないかと思われます。

昔海外に行った禅僧、泰川弟子丸が禅とはと何か問われ何も言わずに机の上で座禅したという話を聞いたことがありますがこの言葉で説明できない部分が存在するのが侘び寂びの世界ではないかと思います。

東南アジア原産の大きな豪華な花の咲くオーキッドではなく小さな可憐な花でありながらそれなりに自己主張している姿が何となく我々の存在理由と一致しているのではないかと思うこの頃です。

ただ残念なことに最近のニュースで日本の政治、高級官僚などを見るとほとんどが腐敗しており多分これらの政治家、その追随者たちには侘び寂び、もののあはれ、などとは無縁の世界で生きてきたものと思われます。

同じ日本人としてすごく残念です。