昨日は私の住むカタルーニャ地方の今年の水事情を書いてみましたが書きながら世界的にみても水資源の重要性が最近とみに顕著になり世界的規模で真剣に考える時ではないかと思われ続きを書いています。

人間が地球上で生活するためには人間に適した地球環境が必要ですがその中でも空気、水などは最も重要な資源です。

人類誕生からほんの最近(100年ほど前)までは人間の生活が地球環境に影響を与える規模ではなく、各国、各部族、などの単位で皆好き勝手に生きていればよかったのですが科学技術の発展のスピードが驚異的で其れに伴い人間の生活様式も一変してしまいました。

その為否応なしに地球規模のグローバル化が進んでしまいました。

このグローバル化に関しては賛否両論がありますが気候変動、エネルギー問題、空気、水などの問題はグローバル的に対処するしか解決策は見出せません。

ただこの対処の方向性を決定する方法があまり的確でないような気がします。

どうもグローバル的に政治経済に力を持っている人達によって方向性が決められ本当に大多数の人類が望む方向ではなく一部の人の決定に大勢が従うと言う図式です。

昔は各集団が小さくその集団ごとに方向性を決めていてどこかが失敗しても他が成功してその時点で成功した方に舵を切ることが可能でしたがグローバル社会では失敗は許されません。

昔は地域ごと、大きくとも国ごとの運命共同体の一員でしたがグローバル化した現代では一部の指導者の為の道具になり運命共同体の一員になる事さえ剥奪されているような気がします。

さてそんな事を思い始めると考える事さえ嫌になるのでこの辺で話を水に戻したいと思います。

人は生まれた時から空気と水を摂取しながら生きています。

大気中の空気の存在を知らずに呼吸をしながら水の中では呼吸ができないことは体験を元に学びました。

地球上には真水よりも海水の方が圧倒的に多いにも関わらず飲料には海水は向かない事を知り大昔から真水の存在の重要性を認識していました。

さて現代では世界中で水不足が取り沙汰されていますがそれは気候変動で水が減ったためでもなくまた人口が増えた為よりも一人当たりの水の使用量が増えたのと同時に、飲料以外には農業に重点的に使われていた水がそれ以上に工業に使用され、その必要とされる水質は飲料水を超える場合も現代では当たり前で濃度の高い不純物(人体に有害な物も含む)を含有した使用済水がもう一度河川および地下水系に流れ込みます。

そうなると元々水資源の乏しかった地域では水の絶対量が不足し、水の多い地域でも水源の中にいろいろな不純物が溶け込みただ生命を維持する為以外の水の用途が莫大になります。

この水利用のための重要度順位が生命維持が最重要になるのではなく経済生命維持が最重要になりそのために水の価格が高騰して

全ての水道料金までがその煽りを受けます。

これは水だけの話では無くエネルギーも同じです。

誰が決めたのか代替エネルギー(持続可能なクリーン?)全盛になり、何から作ろうが関係のない太陽光、風力発電装置、EV車、

CO2削減、果てはLGBTqまで世界標準として無理矢理守らせようとしています。

それがあまりにも急速すぎて実験段階の技術が流通する事になりその高い代償と不便さのツケを支払わされているのが市民です。

水に関しても随分前から海水淡水化装置の新しい方法が開発され塩の分子は通さずに水の分子だけ通ることの出来る新しいフィルーターが開発され、今の何千倍の量が簡単に淡水化できると言う話ですが全てこれらは実験室の話で実用化まではまだ相当の時間が掛かると思われます。

ただ我々素人は細かい事はわからないので夢のエネルギー核融合は難しそうなのでまだまだ実用化しそうに無いのではと考えられますが塩が通らず穴の小さい水だけ通るフィルターと言われると案外簡単にできるのではと勘違いしますが若しかしたら海水の中には水よりも小さい分子、水と同じくらいの分子の真水以外のたくさんの成分が有る場合やはり水だけを取り出すのもそんなに簡単では無いはずだと思われます。

最近は政治家たちもとにかく早く成果を出したいために重要な決定を行う場合も焦りすぎて方向性を間違え便利になるはずの生活が不便で高額になる場合もよくあります。

地球上気候風土の違うあらゆる場所に住み、生活習慣の異なる人間がグローバル化した規則に合わせようとする事自体が異常です。

その歪みがそろそろ出始めています。

昔このブログでサボる働き蟻の話を書いたことがありますが皆が同じ行動を取ったならば大きな異変に遭遇した場合は皆同時に消滅してしまいます。

よくSF小説などで昔の高度な文明が消滅した跡があると言うような物語がありますがもし存在したとするならば高度にグローバル化した為の結末では無いでしょうか?