これの続き。
先週の日曜日、
丸1日使って生まれ故郷を兄姉とドライブして、
親戚に会い、話をして、感謝を伝えてきた。
遠くに見える生まれ故郷の高崎の観音様。
うちの家はもともと父親は個人設計事務所を経営
母親は父親の手伝いと、
看護師の資格を活かして、ちょびちょび色んなところで働いていた。
父親の兄妹とは特に仲が良く、
富岡の祖母宅でいとこと集まって、騒ぎ、
大人は朝方まで麻雀をやっていた。
長期休みはそれがお決まり。
大人達はとても、楽しそうだった。
私は、男ばかりの従兄弟の笑いのツボは理解できなかったが(^◇^;)
裏に流れる川に魚を見つけては飛び出していって、捕まえたり、
外でお米をふかして、お餅付きしたり
バーベキューしたり…
あの時間は、子どもながらにほんとにとても楽しかった。
その後、私たちは親と離れて、農業や酪農を体験させ、自立した考えを養う寮に入れられて育った。
従姉妹と会う機会も減った。
寂しかった。
その後家ごと、法人に入った。
親が勝手に決めた。
家を売って、全財産を入れて入る契約。
親戚とも縁が切れたような感じになってしまった。
学資保険の300万だけ渡され、大学は無理だと諦めた。
兄は私と姉にお金を等分してとっておいてくれた事を、大人になってから知った。
18で家を出た兄。
新聞屋のバイトをして格差社会を目の当たりにした。
手に職をつけなければ!看護師になる事を決めた。
自分の分の100万で全てまかなえる、国公立の寮付きの看護学校に見つけ入学。看護師となった。
その後理学工学士もとり、今は看護学校の先生。
来春博士課程を終了予定。
当初目標にした食いっぱぐれのない職業に兄はなるのだ。
兄が私たちに100万ずつ残しておいてくれた気持ちも、実家を失った兄がどんな気持ちでこれまで生きてきたかも、今回の兄妹会議という名の、故郷ドライブで初めて知った。
私達兄姉は早くから寮に入りバラバラに育ったから、兄妹3人で過ごしたのはたったの6年だけなのだ。
たくさん話した。
そして、実家をなくした兄をサポートしてくれた伯父・叔母に3人で挨拶に行きたいと、直前にアポ取りし、会いに行った🚗💨
頼れる親がいなくなり、あの時、食べ物を買ってくれた恩。
好きなものを買ってくれた思い出。
遊園地に連れて行ってくれた思い出。
駅まで迎えに来てくれた思い出。
おばあちゃんちに身を寄せていた経験がある兄と姉は、伯父叔母との関わりは私より多かったのだ。
頼りたい時にいなかった親の代わりに、
たくさん助けてくれた伯父・叔母に3人でそれぞれ感謝を伝えてきた。
今回、感謝を伝えるドライブをして、
高崎の旧実家→富岡(お墓参り)→伯父叔母の家→伊勢崎の伯父叔母の家
道中の車内は、兄妹でたくさん話をした。
伯父叔母からは、今後のお墓の事や、おばあちゃんの家のこと。
維持費は何も心配しなくていい事。
お墓や土地を次に引き継いでいく手順。
伯父叔母の考え。
3人3様思った事・感謝の気持ちを伝え、すごくいい時間を過ごさせてもらった。
お墓参りや、
子どもの時にお世話になった人に
感謝を口に出して伝えるっていいものだなぁと思った。
なんだか気持ちがスッキリした。
こんなに溜まってると思っていなかった…
子どもの時に優しくしてもらった記憶。
ゲームセンターダメなお母さんに変わって、やらせてくれた叔母。
マックダメなお母さんに変わって、買ってくれた伯父。
ゆみはナタデココが好きだからって、いつも買ってくれていた従兄弟宅のお泊まり会。
うちの親に対して、きっと色々思うことはある叔父と叔母なのに、私達には無償の愛をかけてくれていたのがよ〜く分かった。
親に聞いて招待するのを辞めた私の結婚式。
呼べば良かったなぁと思った。
昔の優しくしてもらった事を涙こらえられず泣きながら伝えると、
『とにかく可愛かったんだよ。私たちも楽しかった。あの頃に戻りたい…』叔母が言った。
そんなに可愛がった姪っ子の結婚式は見てみたかっただろうなぁ
時が解決する事もあるから、結婚式当時は難しかった。
今だから伝えられた感謝かもしれないし、
私達兄妹も、それぞれパートナーに子どもは託し、
今だから集まれて、
1日出かけられるようになった。
今だから出来たこと。
なんか良かった。
行けて良かった。
伝えられて良かったなぁと思った1日なのでした。