「法の賢慮、平等主義に敗れたり」 | 武藤貴也オフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある。」Powered by Ameba

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国家主権、国家の尊厳と誇りを取り戻す挑戦!品格と優しさ、初志貫徹の気概を持って(滋賀四区衆議院議員武藤貴也のブログ)

 9月5日、最高裁大法廷(裁判長・竹崎博允長官)が、結婚していない男女の間に生まれた子(非嫡出子・婚外子)の遺産相続分を、結婚している夫婦の間に生まれた子(嫡出子)の2分の1とする民法900条4号但書について、「法の下の平等」を定めた憲法14条に違反するとの決定を示した。驚くことに、裁判官14人の全員一致によるものだった。

 裁判所はこれまで民法の規定を違憲だとは判断してこなかった。しかし今回「国民意識の変化、国際社会の勧告などに加えて、非嫡出子の相続を嫡出子の半分とすることの合理性が認められない」とし、違憲との判断を下した。マスコミ各紙も、その殆どがこの判決を絶賛し、「父母が婚姻関係になかったという、子にとっては自ら選択・修正する余地のない事柄を理由として、その子に不利益を及ぼすことは許されない」との論陣を張った。朝日新聞はその社説で「遅すぎた救済である」とまで述べた。

 確かに、全ての子が等しく幸せに育ってほしいと思うのは至極当たり前の感情だ。しかし今回の判決に大きな違和感を覚えたのは私だけではあるまい。考えれば考えるほど、今回の裁判所の判決を契機として、現在日本を覆っている思想の潮流や三権分立・統治機構そのものの問題が広く存在し、そして根深いことに気付く。それはさておき今回の判決について、私は二つの点で欠陥があると考えている。一つは、今回の判決は「子」の「平等」という視点だけを押し通しており、「家族」すなわち「婚姻共同体」の尊重という視点が無視されていることである。

 これまでの民法の規定の根底には、「個人」よりも「家族‐婚姻共同体」を尊重するという考え方が存在した。日本の家族は多くの場合、生計を維持するために夫婦で互いに協力し働き、家事を負担し、親戚付き合いや近所付き合いを行うほか様々な雑事をこなし(民法では夫婦協力扶助義務がある)、あるいは、長期間の肉体的、経済的負担を伴う育児を行い、高齢となった親その他の親族の面倒を見ることになる場合もある(民法では未成熟子扶養義務がある)。子どもはこの夫婦の協力により扶養され養育されて成長し、そして子ども自身も夫婦間の協力と性質・程度は異なるものの事実上これらに協力するのが普通である。こうした日本の伝統的な家族のあり方が、家族はそれぞれが個々人で尊重されるより、個々には犠牲を払ってでも共同体として絆を深めるように努力すべきであるという「家族‐婚姻共同体の尊重」という考え方を育んできた。従って、婚姻期間中に婚姻当事者が得た財産は、実質的に個人ではなく婚姻共同体の財産であって本来その中に在る嫡出子に承継されていくべきものであるという見解が広く国民の間で共有されてきたのである。ところが今回の判決はこうした「家族の尊重」とも言うべき日本の伝統的な視点を全くもって欠いてしまっている。だからこそ今回の判決に「親が亡くなった途端に、親の面倒を見ていない子どもが遺産相続に現れることが許されるのか」という疑問が出されたのである。

 それから、今回の判決における二つ目の問題点は、「父母」や「夫妻」の視点、つまり父に裏切られた嫡出子の視点や夫に裏切られた妻の視点が無視されていることである。「一夫多妻」を認めていない日本の法律は、当然夫一人に対して妻一人、不倫や浮気は許されるものではないという「国民道徳」に基づく。つまりこのことが意味するのは、非嫡出子に差別される側としての悲しみがある一方で、当然嫡出子にも父に裏切られたという悲しみがあるということだ。そしてそれ以上に決して忘れてはならないのは、正妻の懊悩煩悶である。だからこそこれまでの民法の規定は、夫を愛人やその子に奪われた正妻の応報感情を重視したものであり、その点で広く共有されてきた「国民道徳」に裏付けられてきた法律だと言える。ジャーナリストの櫻井よしこ氏はこの点について次のように述べている。「非嫡出子の相続分が嫡出子の半分であることがいけないというが、家庭外で子どもをつくることはそういう結果を伴うという覚悟を、母親の側が持つのが本来の姿であろう。父親は、婚外子にも平等に分けてやろうと考えれば、その旨、遺言を残すことができる。最高裁の判断で平等を担保するより、日本人が責任ある大人として考え、振る舞えばよいことなのだと私は思う」。

 「子は平等」「子に罪はない」「子は親を選べない」と言われれば、反論のしようがない。しかしだからこそ非嫡出子を経済的に保護すべきだという、いわば社会的な配慮で日本は、結婚している人々に対してよりも、結婚せずに子どもを産み育てるシングルマザーに対して、より有利な税法・支援制度を作ってきた。つまり「相続」という分野ではないところで「非嫡出子」を保護してきたのである。その上今回のように相続権まで同等に認めることになれば、結婚や家族そのものを否定する方向へと、インセンティブが働きかねないと私は思う。

 今臨時国会で急ピッチに進められた「民法改正(改悪)」だが、果たして本当にそれで良いのだろうか。日本人としてもう一度深く考えるべきではなかろうか。

 今回の判決を聞いた埼玉大学の長谷川三千子名誉教授は「法の賢慮、平等主義に敗れた」と表現した。実に的を射た表現だと思う。これまで日本では、個人の尊厳や家族の尊重、そして平等主義と日本の伝統的な道徳観念、様々な議論がある中でシングルマザーへの優遇措置を含めた法制度の整備を積み重ねてきた。家族を守りつつも罪の無い非嫡出子に経済的苦労をなるべくさせまいという、まさに大人の対応として「法の賢慮」を生み出してきたと言って良い。しかしながらグローバル化の波に乗って押し寄せて来た「欧米型の平等原理主義」によって、今まさにそうした「法の賢慮」が否定され、日本の伝統的な価値観が破壊されようとしている。そしてそのグローバル化の忠実な指導役に、司法、つまり最高裁判所がなってしまっているのである。「違憲立法審査権」を規定した憲法81条を金科玉条の如く掲げた最高裁判所が、絶対的権力を持って、「国権の最高機関」である国会をも凌駕し、日本社会の伝統・文化を破壊し始めている。

 非嫡出子の問題だけではない。一票の格差問題も、夫婦別姓問題も、外国人地方参政権問題も、全て欧米の「個人主義」「人権思想」「平等主義」に基づき、裁判所や法律家が指導的な役割を果たしている。情けないことに、それに唯一と言って良いほど抵抗する力のある「立法府」や「行政府」は、「司法の判断は重い」という表現を合言葉のように使用し、「国権の最高機関」として、それこそ「民意」に基づく反論をせずに、最高裁判所の判決にただただ追従してしまっている。もはや国権の最高権力者は最高裁判所長官の如し、である。

 法律学の世界でも政治学の世界でも、三権分立の原則や国民主権原理の観点から、民主的基盤が弱く政治的に中立であるべき裁判所にはその性質上扱えない問題が存在するといういわゆる「統治行為論」なる見解が存在する。また、憲法判断は裁判所がしても、それを受けてどのように法整備をするかはあくまでも「統治行為」であり、「唯一の立法機関」である国会が担う。今回の判決を受けて、嫡出子と非嫡出子の相続が按分されるくらいなら、正妻の相続割合を2分の1から引き上げて、子どもの相続分を激減させるよう法改正すべきとの意見が出されている。一つの方法だろう。しかしながら私は、こうした法改正も含めて、今回の判決に立法府・行政府としての反論・抵抗をすべきだと思う。私個人は、まだまだ微力である故に国会の中でもできることは少ないが、こうした見解を様々な場所で主張し、また記すことによって、行き過ぎた平等主義に抵抗し、グローバル化の波から少しでも日本の伝統・文化を守るために国民的議論を喚起したい。