「体罰」について考える | 武藤貴也オフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある。」Powered by Ameba

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国家主権、国家の尊厳と誇りを取り戻す挑戦!品格と優しさ、初志貫徹の気概を持って(滋賀四区衆議院議員武藤貴也のブログ)

 昨年12月下旬、大阪市立桜宮高校バスケ部の男子生徒が、監督から「体罰」を受けたことを理由に自殺した。確かに非常に痛ましく、悲しい事件である。繰り返してはならない。しかしこの事件を相対化し、「体罰」自体を完全に否定するのには、私は疑問を抱く。

 今日2月19日参院予算委で、安倍総理は体罰について「断ち切らなければならない悪弊だ。日本の伝統という考え方は間違いだ」と述べ、「政府としては体罰の考え方をより具体的に示し、学校現場の過度な萎縮を招かないよう配慮しながら体罰禁止の趣旨の徹底を促したい」と答弁した。

 確かに、「教育上の体罰」と「教師による個人的な暴力」は紙一重であって区別するのは難しい。しかしだからと言って「体罰」そのものを全否定してしまうのは間違っていると私は思う。口で注意することが先ずは最も大切だが、口で注意してもわからない「いじめっ子」や「暴力をふるう子」に、皆の前で「げんこつ」をはったり「廊下に立たせ」たりする「体罰」は、長く記憶に残りやすく、より教育効果が高い。また皆の前で「恥」をかくことでなおさら「非行」はしなくなっていく。「暴力をふるう子」は、時には「げんこつ」程度では済まない場合もあるだろうが、実際「体罰」が教育的に非常に大きな成長を促したり、更生させたりするケースが多いのも事実だろう。

 親も学校も見捨てた「非行少年・少女」たちを全て受け入れ、真正面から向き合い、数多くの子どもたちを更生させてきた戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏は「体罰」は「善」だと言い切る。石原慎太郎氏や櫻井よし子氏らが支持する戸塚氏によれば、「体罰」とは「進歩を目的とした有形力の行使」であり、「礼儀作法を身につけさせるための躾や、技芸、武術、学問を向上させて心身を鍛錬することなどと同様に、教育上の進歩を実現するにおいて必要不可欠なもの」だという。そして、続けて更に「子どもが困っている。体罰をすれば簡単に治る。それがわかったから、儲からないのは分かっていたが体罰を行うために、私のヨットスクールはあえて学校法人にしなかった。子どもは体罰を受ける権利があるんです」と主張する。

  一方彼は、当然だが「暴力」は許されないとも言う。自己の利益、不満解消(鬱憤晴らし)、虐待を目的として人(弱者)に対して有形力の行使をして傷つける行為は、家庭内であれ、学校内であれ、社会内であれ決して許されない。進歩を目的としない「暴力」と、進歩を目的とする「体罰」とは根本的に異なるのである。

 問題は、「暴力」と「体罰」の区別がしにくいところにある。けれども「体罰」を全否定、全面禁止にするのは、教育現場の委縮を招き、子どもによる「はき違えられた自由」を横行させかねない。静岡県のある高校教員は、大阪市立桜宮高校の問題が発覚して以降、ささいなことでも生徒たちが「体罰だ、体罰だ」と口を出し、きちんとした指導が行き届かない状況があることを語っていた。同様の指摘は他にもあり、先生がちょっと怒っただけでも「ターイバツ、ターイバツ」と連呼するクラスがあるとの報告もある。教師たちも戸惑いながら生活指導にあたっている事例が数多くあるだろう。

 私は、「体罰」について、その是非は個別のケースで丁寧に論じなければならないと思う。また、部活における「体罰」や、校則違反や校内暴力での「体罰」も一緒にするわけにはいかないだろう。つまり「体罰」を一括りにして、一概に禁止すべきではないと考えるのである。

 一方、京都大学の佐伯啓思教授はこの体罰問題について、より掘り下げて次のように語っている「かつては、教師に激しくしかられたり、あるいはいじめにあったりすれば、友人や先輩が相談にのり、家族や親類が支え、年長者が助力になったりしたものである。確かに、家族はあまりに密度が高すぎるのでかえって相談しがたいものはあろう。親には話しにくいものである。しかしそれでも、親や兄弟のまなざしを感じることができれば、何とか自らを立て直したものであった。今日、そういう「信頼」できる関係の場が失われてしまっているようにみえる。だから問題は、学校も家庭も地域もむしろ「近代化」してしまって、「前近代的」な人間同士の触れ合う場がなくなってしまった点にある。」

 確かに、「体罰」を受けた生徒が、「心のよりどころとする場」を失っているところに根本的な問題があることもよく理解できる。「体罰」の必要性を教育現場に認めた場合、子どもの「心のよりどころとなる場所」を社会として、学校として、家庭としてどう確保するか、教育者はそのこともよく考えたうえで、子どもに愛情を持って「叱る」ことが何よりも必要であろう。