『立正安国論』に宣給わく
仁王経に云く「人仏教を壊らば復た孝子無く、六親不和にして天神も祐けず。疾疫悪鬼日に来りて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。響の如く影の如く、人の夜書くに、火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。
只今拝読の御文は『立正安国論』における、仁王経を引いて
「生命が永遠であり、三世の因果が厳然として存在している」
という事を御示し下された一節であります。
「人仏教を壊らば復た孝子無く、六親不和にして天神も祐けず。疾疫悪鬼日に来りて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し」
まずこう仰せられる。
「もし、人が仏法に背くならば、その家に親孝行の子供が出てこない」
「六親不和にして天神も祐けず」
「常に家庭内不和で喧嘩ばかりでゴタゴタしておって、諸天もその人を助けない」
「疾疫悪鬼日に来りて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横」
「年中病に冒されて『どうしてこんなに災難が続くのか』というような人生を送るのだ」と。
これは「人が仏法に背く罪科によって今生において不幸を招く」という事であります。
「死して地獄・餓鬼・畜生に入らん」
「死んだ後において、その人が地獄・餓鬼・畜生に入るのである」
これは、後生の果報であります。結果と報いですね。
「若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん」
というのは、次に来世に生を受けた時の来世の果報の事。
「たまたま、人ともう一度生まれる事があるならば『兵奴』(『兵隊』『奴』と書く)すなわち、兵士として戦場に駆り出されるような目に遭ったり、あるいは、奴隷として一生人にこき使われるような運命になるのだ」と。
そして最後に結んで
「響の如く影の如く、人の夜書くに、火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」
と例えを引いて解しておられる。
「響の如く影の如く」というのは「この三世の因果というものは、響きが声に応ずるがごとく、影が体に離れないごとく、三世の因果というのはその人にずーっとついていくのである」と。
そして「人の夜書くに、火は滅すれども字は存するが如く」
「人が夜文字を書く。明りを消します。見えなくなっても文字はそこに存在してくるではないか」とこういう例えであります。
どういう事か。
「人の夜書く」というのは、現世における創悪ですね。現世において悪い事をする。その業をするという事がすなわち「物書く」という事に当たるのだ。
たとえば世間の悪で言うならば「盗む」「騙す」「殺す」仏法の悪で言うならば「謗法をする」「仏法に背く」
でこのような一つの事が「人の夜書く」という事であります。
「火は滅する」という事は、この人が死んで、身がすなわち「消滅する」と。見えなくなってしまう。「火が滅する」という事ですね。死ぬ事である。
「字は存するが如く」
「しかし、その業法というのは未来に必ず持ち越されていくのである」
「業は消えない」って事ですね。
たとえ、身が死んで見えないようになったとしても、その生命には、生前やった「業(行為)」という事が、みんなそれぞれ善悪につけて刻印(インプット)されていくんですね。
それが未来の業法となって現われるから「字は存するのである」という事であります。
そして、日寛上人はこの「人の夜書くに」という御文を引いて解釈する時にこういう事をおっしゃっておられる。
紫陽(紫の太陽と書く)という学者がこんな事を言っておったんですね。
「人間は、死ねば全てが消えてしまって何にも残らないんだ」とこういう事をある論文に書いておった。これを日寛上人が取り上げられて
「是れ因果を知らざる故なり」
「この者は、三世の因果を知らないからこのような事を言うのである」
という事を仰せになっておられまするが、まことにその通りですね。
今の世間の識者もみんなそうですよ。偉そうな事を言おうとも、こと生命に関しては生命の永遠を知らない。三世の因果を知らざる事愚人と同じであります。
ですから、この「生命の永遠を知る。三世の因果を知る」という人と、それから「死ねば全てが終わりだ」こういう人生観を持つ者とでは、その生き方に天地雲泥の差を生ずるんですね。
もし「死ねば全て終わりだ」っていうんだったら、人間は、欲望のままにやりたい放題をやったらいいんです。そして行き詰まってしまえば自殺してそれで終わり。
そういうような者が末法の世に充満してるから、やたらとすぐ人を殺すような事が起きるんです。
今朝も出かけにニュースを見ておったらば、松山でもって50になんなんとする男が、飲食店の店長をやっている24歳の女性に「交際したい」と言って呼び出した。「是非とも」と言って何度も交際を迫ったら相手が拒否した。直ちに包丁で刺して殺したっていうんですね。
数日前には、18歳の少年がナイフでもって母親を刺し、そして、兄弟を刺し、家に火をつけたって事があったでしょう。
このように「簡単に、衝動的に、欲望に任せ、怒りに任せて平然と殺す」という事ですね。「死ねばそれまでよ」とこういう事が起きてるわけです。
ここに『生命の永遠と三世の因果を教えるという事がどれほど大事か』という事を思うんですね。
人は、智恵のない時には、この三世の生命という事がわからない。
智恵が深くなるに従って、人間は視野が広がって、因果のつながりがわかってくるんでしょう。
ですから、生まれたばかりの赤ん坊においては一瞬一瞬が全てですよ。昨日と今日のつながりがわからない。今日と明日のつながりもわからない。智恵が進むに従ってだんだんわかってくる。
大人(成人)になってくれば、生まれてから今日に至るまでの自分のつながりがわかってくる。
ただし、凡夫は現世の事しかわからない。過去世と現世のつながりがわからない。未来世の事がわからない。
仏様は、三世両達ですね。
ですから大聖人様は「凡夫が現世しかわからない」という事を『開目抄』に
「過去を識らざる事凡夫の背を見ず、未来を勘みざる事、盲人の前を見ざるが如し」
「ただ現世しか分からない」
「仏は三世両達。透徹の智恵を御持ちであられるから、過去世の事、そして現世のつながり、未来世のつながり、これが全ての事がおわかりになる」という事なんです。
凡夫は、死ねば姿がなくなっちゃう。消えて行っちゃうから何にもないと思う。
ところが「死」というのは無相の状態になるだけである。
「無相」というのは姿・形がない。そういう状態に変わるだけであって、生命そのものは厳然と存在しているんです。
「無相」という、姿形はないけど存在するという事はこの宇宙にいくらでもあるでしょう。
電波なんかそうじゃないですか。目に見えないでしょう。
あれが目に見えて本当にぶつかってきたらば歩いてられない(笑)。「こっちからNHK
」「こっちから日本テレビ」なんて(大笑)。
ところがそれが姿・形が見えない。だけど存在してく。
引力もそうですよ。これも目に見えない。
それから紫外線なんていうのもそうですね。
あるいは、この銀河系を全部中心でもって形成していくその中心のエネルギーをブラックホールとという、これも全く見えない。だからブラックなんですね。