で「前代(ぜんだい)未(み)聞(もん)の大法(だいほう)」というのはどういう事かと申しますると

「釈(しゃく)尊(そん)が説かれた一代(いちだい)五(ご)十(じゅう)年(ねん)の説法(せっぽう)の中でも、ただ法華(ほけ)経(きょう)の本門(ほんもん)寿(じゅ)量(りょう)品(ほん)の文の底に秘(ひ)し沈(しず)めて説かれた所の大法(だいほう)。
 すなわち、久(く)遠元初(おんがんじょ)の下(げ)種(しゅ)の大法(だいほう)、南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)の御(ご)本尊(ほんぞん)の事である」

という事ですね。
 釈(しゃく)尊(そん)を始めとして三(さん)世(ぜ)十(じゅっ)方(ぽう)のあらゆる仏が、実は、この御(ご)本尊(ほんぞん)を種(たね)として、本として仏になる事ができた。
 ですから「最初に仏になる時に修行した御(ご)本尊(ほんぞん)が、実は、この南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)の御(ご)本尊(ほんぞん)であった」と。

 「そして、それらの諸仏(しょぶつ)があらゆる経々(きょうぎょう)を説いた。
 それらの経々(きょうぎょう)も全部、この御(ご)本尊(ほんぞん)から発生(はっせい)しているのである」

という事なんです。
 ですから、日寛(にっかん)上(しょう)人(にん)はこの事をご説明されて

「諸仏(しょぶつ)諸(しょ)経(きょう)の能(のう)生(しょう)の根源(こんげん)、諸仏(しょぶつ)諸(しょ)経(きょう)の帰(き)種(しゅ)する所(ところ)なり」と。

 すなわち「この御(ご)本尊(ほんぞん)によって、釈(しゃく)尊(そん)を始めとして三(さん)世(ぜ)十(じゅっ)方(ぽう)の諸仏(しょぶつ)がことごとく生ずる事ができたのである」という事なのであります。

 ですから、大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)は『秋元(あきもと)抄(しょう)』という御(ご)書(しょ)にこう仰せになっておられる。

「三(さん)世(ぜ)十(じゅっ)方(ぽう)の仏(ほとけ)は、必(かなら)ず妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)の五字(ごじ)を種(しゅ)として仏(ほとけ)になり給(たま)へり」と。

「妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)のこの御(ご)本尊(ほんぞん)を種(たね)として、初めて仏になる事ができたのだ」と

。  まさしく、釈(しゃく)尊(そん)を始めとして、三(さん)世(ぜ)十(じゅっ)方(ぽう)の諸仏(しょぶつ)が仏になるための大元(おおもと)の種(たね)こそこの御(ご)本尊(ほんぞん)であられる。
 ですから、釈(しゃく)尊(そん)においても、自分が仏になれた最初の元の御(ご)本尊(ほんぞん)ぐらい大(だい)事(じ)なものはないでしょう。

 ですから「釈(しゃく)尊(そん)が一代(いちだい)五(ご)十(じゅう)年(ねん)の間(あいだ)説法(せっぽう)をして、その最後の本門(ほんもん)寿(じゅ)量(りょう)品(ほん)の文の底に密(ひそ)かに説き示(しめ)されたのが、実はこの南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)の御(ご)本尊(ほんぞん)であった」という事なのであります。

 この事を柿(かき)の木に例えますと、釈(しゃく)尊(そん)の説いた一代(いちだい)五(ご)十(じゅう)年(ねん)の説法(せっぽう)を逞々(ていてい)たる柿(かき)の大木(たいぼく)とする。
 その茂(しげ)った枝(えだ)葉(は)というものは、元を尋(たず)ねれば、一粒(ひとつぶ)の種(たね)から発生(はっせい)しているんですよ。その種(たね)は、大地の中にあって見えません。
 しかし、その柿(かき)は、成(せい)長(ちょう)し切った最後において、梢(こずえ)の先に柿(かき)の実をつけます。
 その柿(かき)の実の奥には種(たね)がしまわれてるんですね。
 「この種(たね)こそ、大木(たいぼく)を発生(はっせい)した根源(こんげん)の種(しゅ)子(し)ではないか」という事で「最(もっと)も大(だい)事(じ)な種(たね)は、この木が成(せい)長(ちょう)の最後においてまた元の発生(はっせい)の種(たね)をそこにしまうのである」という事です。

 「柿(かき)の実はすなわち法華(ほけ)経(きょう)本門(ほんもん)寿(じゅ)量(りょう)品(ほん)である。
 中にしまわれて表から見えない種(たね)そのものは、まさしく、文底下(げ)種(しゅ)の南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)の御(ご)本尊(ほんぞん)様(さま)なのである」

という事なんです。
 ですから、この事を、舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)・目連(もくれん)等釈(しゃく)尊(そん)在(ざい)世(せ)の衆(しゅ)生(じょう)は、柿(かき)の実を見て、中にしまってある種(たね)を悟(さと)る事ができた。
 すなわち舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)・目連(もくれん)等は法華(ほけ)経(きょう)の本門(ほんもん)寿(じゅ)量(りょう)品(ほん)の説法(せっぽう)を聞いた時、その奥にしまわれてる、文の底に沈(しず)められてる南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)の御(ご)本尊(ほんぞん)・久(く)遠(おん)元初(がんじょ)の仏法(ぶっぽう)を悟(さと)る事ができた。「それを悟(さと)って仏になる事ができた」っていうんです。なぜか。
 舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)・目連(もくれん)等は過去においてすでに下(げ)種(しゅ)を受けて、そして退転をして三千(さんぜん)塵点(じんでん)・五(ご)百(ひゃく)塵点(じんでん)の間長い事流(る)悩(のう)して、そして釈(しゃく)尊(そん)在(ざい)世(せ)に生まれ合わせた。
 でこれらの衆(しゅ)生(じょう)は機(き)根(こん)が優(すぐ)れているから、種(たね)を見なくても柿(かき)の実を見て、その中に種(たね)のある事を知って悟(さと)って仏になる事ができた。これが在(ざい)世(せ)の衆(しゅ)生(じょう)の脱(だっ)益(ちゃく)であります。
 ところが、末法(まっぽう)においてはそのような下(げ)種(しゅ)を受けている者はいないから、柿(かき)の実を見たんでは中にある事がわからない。
 ここに、末法(まっぽう)には、種(たね)そのものが日蓮(にちれん)大(だい)聖(しょう)人(にん)の弘通によって一切(いっさい)衆(しゅ)生(じょう)に下(げ)種(しゅ)されるんですね。
 この下(げ)種(しゅ)の大法(だいほう)は、下(げ)種(しゅ)の御本仏でなければ弘める事ができない。
 ここに大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)は、末法(まっぽう)の御本仏・久(く)遠元初(おんがんじょ)の御本仏として、この文底下(げ)種(しゅ)の南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)の成(じょう)仏(ぶつ)の種(たね)を一切(いっさい)衆(しゅ)生(じょう)に弘めて、そして、全人類を絶滅(ぜつめつ)より御救い下さる。
 「末法(まっぽう)の衆(しゅ)生(じょう)というのは荒凡(あらぼん)夫(ぶ)ですから、戦い・戦争がだんだん大(だい)規模(きぼ)になってきて、ついには人類絶滅(ぜつめつ)に至(いた)るであろう。
 そのような荒れ狂(くる)った末法(まっぽう)の衆(しゅ)生(じょう)を御救い下さるのは、下(げ)種(しゅ)の仏法(ぶっぽう)である南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)以外にはあり得(え)ない。三大(さんだい)秘(ひ)法(ほう)以外にはあり得(え)ない」
という事で、まず日本から中国・インド・全(ぜん)世(せ)界(かい)へ弘まる。
 これが、大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)の雄大(ゆうだい)なる御化(ごけ)導(どう)であります。


平成20年 1月20日 浅井先生指導