で只今ただいま拝読はいどくいたしました一節でありまするが、ここは

「もしだいしょうにんさま末法まっぽう法華ほけきょうぎょうじゃ、すなわち、仏様であるならば、何でざいざいというような大難だいなんわなければならないのか」

という事に対するけんうたがいであります。
 その事に対して

「この大難だいなんを受けている事こそ、三大さんだいほうづうどくによる。
 しゃくぶくどくによって、りょう過去かこざいしょうを今自分がしょうめつしている姿『てん重軽じゅうきょうじゅ』のどくなのである」

という事をおおせになっておられる所であります。
 日寛にっかんしょうにんはこの事について「これは、どうぼんの辺に約すんだ」とおっしゃってる。
 だいしょうにんさま過去かこ罪業ざいごうなんかあるわけがないでしょう。
 何で「自分のりょうざいしょうしょうめつするんだ」などという事をおおせになっておられるかというと「どうぼんぼんに同じ機をしめすんですよ。
 「だいしょうにんさまだけは我々ぼんちがう」と言ったのでは、我々ぼんのいわゆる宿しゅくめい転換てんかんしゅぎょうがわからない。
 そこで過去かこにいろんな悪い事ばかりしてる」過去世かこせにおいて、そのぼんの身に約して「自分がこうしてるんだ」という事をしめし下さるだい慈悲じひ。これを「どうぼん」というんですね。
 「ぼんに同じ機をしめす」これが、だいしょうにんさまだい慈悲じひであられる。  こうおおせになっておられる。

うたがっていわく、いかにとしてなんじざいざいとう過去かこ宿習しゅくじゅうらむ」

「どうして『ざいざいになっている事が過去かこ宿習しゅくじゅうによるんだ』という事が言えるのか」

こたえていわく、どうきょうしきぎょうあらわす」

(昔は、かがみはみんなどうの板をピカピカにみがいたんですね)「そうすると姿・形がうつるんだ」と。

 「どうきょうというのは、姿・形を表わす事ができる」

秦王しんのうけんかがみ現在げんざいつみあらわす」

といって、中国のしんの国王は不思議ふしぎかがみを持っておった。
 そのかがみの前に座ると、悪い事やうそをついてもすぐにばれてしまう。
 「お前がぬすんだのか」「いえ、ぬすんでません」しかし、かがみらすとすぐわかってしまう。今でいううそ発見はっけんみたいなものであります。
 で仏法ぶっぽうかがみ過去かこ業因ごういんげんず」といって、仏法ぶっぽうかがみは何を表わすかというとさんに渡る過去かこ現在げんざいらいに渡るいんのそのつながりがわかるのだ」と。

 「過去かこいんらんとほっせば現在げんざいよ」という事なんでしょう。

 「自分が現在げんざいに置かれたきょうがいを見れば、過去かこに自分がどんな事をやってきたかわかる。
 その事を表わすのがすなわち仏法ぶっぽうかがみなんだ」

とこうおおせられる。  そしてきょうもんを御引きになる。

 「般泥はつないおんきょういわく。『善男ぜんなん過去かこかつりょう諸罪しょざい種種しゅじゅ悪業あくごうつくる』」

過去世かこせにおいて、様々なる悪業あくごうを作ってきているものだ」

 そうなんですね。人をだましたり、ぬすんだり、人をころしたり、このような悪業あくごうを作る。

 「本人は忘れているかもしれないけれども、それらの諸々の罪報ざいほうつみむくい)というのは、こんじょうにおいてかならず現われてくるんだ」

 それが、いろんな姿をきょうもんいていますけれども

あるいきょうせられ」

「人に馬鹿ばかにされるというきょうがいを受ける」

あるい形状ぎょうじょうしゅう

「もう少しかっこよく生まれればいいんだけど姿すがたかたちみにくい」

ぶくらず」

「着るものがない」

飲食おんじき麤疎そそ

「まずい物、まつな物しか食べる事ができない」

ざいもとむるにあらず」

「お金をもうけようと思っても、あせればあせるほどお金の方でげていってしまう」

貧賎ひんせんいえ邪見じゃけんいえまれる」

「『何でこんなまずしい家にまれたのか』『何でこんな無慈悲むじひな親のもとまれなければならないのか』という事があるんだ」

あるい王難おうなんう」

(「王難おうなん」というのはこっけんりょくであります)「こっけんりょくによっていじめられるんですね。『冤罪えんざいだ』といってじつの罪でつかまってしまう事もある」  で「これらの者はことごとく過去かこ罪業ざいごう現在げんざいに現われているんだ」と。

およ種々しゅじゅ人間にんげんほうあらん」

げんかるくる」

 しかるに

げんにおいてこの事を軽く受けていくという事は、すなわち、こんじょうにおける仏法ぶっぽうしゅどくなんだ」
しゃくぶくどくによって、過去かこ宿しゅくごうを今軽く受けているのである」

というこの宿しゅくめい転換てんかんの理を説いた般泥はつないおんきょうがある。
 このきょうもんだいしょうにんは御覧になって

日蓮にちれんあたかけいのごとし」

「まことにピッタリと自分の身にてはまってる」

とこうおおせになる。
 さあそれから

「自分は、過去世かこせにおいてこれらけんの人をだましたり、あるいはぬすんだりというそんなけんの罪ではない。
 おそらくは、過去かこにおいては謗法ほうぼうじゅうざいおかしてきたのである」

と言って、こうおおせになっておられる。

 「われ無始むしよりこのかた悪王あくおうまれて、法華ほけきょうぎょうじゃじき田畠でんぱたとううばりせしことかずらず」
また法華ほけきょうぎょうじゃくびねることかずらず」
と。

 これは「どうぼん」の縁ですよね。
 今ですから私達は、過去世かこせにおいてあるいはこの信心しんじんをしている人の悪口わるくちを言って「そんな信心しんじんをしてどくがあるか」なんて事を言って、真面目まじめ信心しんじんしている者をけなして、果ては、日蓮にちれんだいしょうにんあっをし、本尊ほんぞんさまぼうをしてきた事があるかもしれない。
 この罪業ざいごう、自分は忘れておっても命に深く刻印こくいんされて、将来その報いをる。
 これが「宿しゅくごう」という事ですね。忘れておっても命にインプットされてる。
 これが、らいに出てくるのである。
 さて

じゅうざいたせるもあり、いまはたさざるもるらん」

「これらのじゅうざいは、もうすでに自分でしょうめつしたものもあるし、まだしょうめつされてないものもある」

たすもざんいまきず」

「果たしながらもその罪はいまだ残っているかもしれない」

 そして

しょうはなるるときは、かならじゅうざいててしゅつすべし」

(「しょうを離れる」というのは「じょうぶつる」)

 「いっしょうじょうぶつる時までには、これらの過去かこ罪業ざいごうを全部消し果てなければぶっる事ができないのだ」

おおせになっておられる。

 「どくせんきょうなり。つみじんじゅうなり」

 「自分のどくせんきょうである。しかも、過去かこざいしょうはまことに深く、重い」

 そして

日蓮にちれんごうじょうこく謗法ほうぼうむれば大難だいなんきたるは、過去かこじゅうざいこんじょうほうまねせるなるべし」

というのは

だいしょうにんさまが今、一国の大謗法ほうぼうあらわして、これを責めて大難だいなんを受けるという事は、過去かこりょうじゅうざいこんじょうしゃくぶくによってまねだしてしょうめつしている姿なんだ」

とこうおおせ下さる。まことに有難ありがたい。
 おん元初がんじょ本仏ほんぶつ様に過去かこざいしょうなんかあるはずもない。
 それを、今、過去かこざいしょうじゅうるいぼんの私達弟子でしたちに約して、このように宿しゅくめい転換てんかんげんしめし下さるわけであります。


平成20年 4月13日 浅井先生指導