「日蓮これを見てをもうよう、日ごろ月ごろをもいまうけたりつる事はこれなり。さいはひなるかな法華経のために身をすてん事よ。くさきかうべをはなたれば、沙に金をかへ、石に珠をあきなへるがごとし」
死罪を前にしての大聖人様の胸に抱かれた思いをここにお示しであります。
このただ事とも見えない平左衛門一党の振舞い、いよいよ死罪を執行せんとしたんですね。
これを御覧になって大聖人様が思われた。ずっと今まで思い続けてきたのはこれである。
「この三大秘法を濁悪の世に弘めるならば必ず命に及ぶ大難がある」という事は大聖人様の立宗の時からの御覚悟であられたわけであります。
ですから「日ごろ月ごろをもいまうけたりつる事はこれなり」と仰せられる。
ところが、大聖人様はこれを「さいはひなるかな法華経のために身をすてん事よ」と仰せあそばした。
もしこの臭き頭を刎ねられたならば、砂を黄金に変えて、石を珠と交換するのと同じ事である。
すなわち、この凡夫の身がついに仏身を成就する事になるのであるから、これほどの喜びはないと仰せあそばすわけであります。
これは、仏様でなければ到底こういうような御境界の思いは出てまいりませんね。
これはもう、凡夫の考える尺度とは全く違うんですね。
大聖人様は常に「人間の一生なんていうのは朝露のようなものである」と仰せになっておられる。
本当ですね、宇宙の時を刻む悠久な流れから見たら、数十年の人間の一生なんていうのは一瞬も愚かです。ほんのわずかな一瞬に過ぎない。
その一瞬の命をもし仏法のために捨てるならば永遠の仏果を得る事ができる。
この事を大聖人様はよく御存知であられるから「今仏法のために命を捨てるという事ならばまことに幸いな事である」という事を仰せあそばしたのであります。
