で、この前にも数ページにわたってあります。それが冒頭の部分です。その事を今から簡略に申しまするね。
先ほども「大事な7年」と申しましたが、文永5年の正月の国書到来の時から『下種本仏成道御書』は始まっているのでありまするがこういう事です。
文永5年の1月に蒙古から初めて「日本の国が属国にならなかったら武力を用いて攻めるであろう」という大変な国書が到来した。日本の国が震え上がったんですね。
これこそ、9か年前に大聖人様が『立正安国論』に「他国侵逼必ずあるべし」とこう御断言せられた事が事実となったという事なのであります。
そこで大聖人様は「何としても日本を亡国より救わん」「日本国の邪法と一気に勝負を決して帰伏させなければいかん」という事で公場対決を日本国中の邪宗の代表に迫られたんですね。これを『十一通申状』と申します。
ですから、まずそれを判断する国主である北条時宗並びに平左衛門に一通ずつ宛てて、あとは良観房を始めとするあらゆる諸宗の代表に宛てて「公場対決をせよ(公の場所でもって仏法の邪正を論判して決着しようではないか)。そして、正しい仏法に帰して蒙古の責めを受けて今まさに亡びんとする日本国を救わなければいかん」という事を仰せられた。
ところが、誰も返事をしないんですね。
返事をしないだけではなくて大聖人様の使いを嘘をついて追い返している。
あるいは悪口を言って門を閉じて誰も入れなかった。
大聖人様は文永5年の秋の『十一通申状』以来何度も何度も諌状をお出しになっておられるけれども、幕府はそれを見て密かに陰でもって「門下を徹底的に弾圧する」というような議論をしたんですね。
ところが、大聖人様の仰せになっておられる事は正しい。これを弾圧するという事はいかにも道理が通らない。
そこでもって沙汰やみになって議論だけだったんですね。
ですから、文永5年の大蒙古からの国書到来、大聖人様の公場対決の要求に対して3年間も表面上は黙殺でもってまことに静かな時が流れた。
ところが、この静けさが突如として一変して破れる時が来た。これがいわゆる文永8年の夏の事なんですね。
6月の事でありまするが、この年は大旱魃で正月から雨が一滴も降らなかったんです。
6月になりますると「日本列島で青い物がなくなってしまう」「野も山も全部枯れてしまう」という事になって幕府が慌てたんです。
そこで、良観房に対して鎌倉幕府が「雨の祈りをせよ」という命令をした。
この良観房というのは偽善の最たるもので、一種の通力を持っておったんですね。
ですから、成仏の法は分からないけれども、みんなの尊敬を集めるためにおかしな超能力を利用して名利を得るような事をやる。これが邪教の常であります。
この良観房も慈善事業をやりながらその裏では自分の身を長養するというような事をやっておったんですが、超能力を用いていろんな不思議を現じて人々の帰依を取る。
その一つの方法として雨の祈りをして雨を降らせるという特殊な能力を持っておったんです。
そこで幕府がこの大旱魃を前にして「雨の祈りをせよ」と言ったら良観は喜んだんですね。よっぽど自信があったんでしょうね。
雨を降らせるなんて事は一種の通力でありまするからそういう事をする者も昔にはあった。良観もそのうちの一人だったんです。
そこで、大聖人様は彼が最も得意とする雨の祈りを逆手にお取りになった。
仏法の邪正を論ずる法門には一切出てこない。彼は経文を先として「いずれが成仏の法であるか」という事を論ずる事はできない。
こういう事を一切抜きにして、ただみんなを騙すためにやれ雨を降らせるとか不可思議な超能力を使う事を得意としておった。
大聖人様はこの事を逆手にお取りになって「雨が降るか降らないか、この事をもって現証でもって勝負を決する」という事を決心されたんですね。
これは昔からの事で、伝教大師も雨の祈りをもって事を決せられたという前例がある。
雨の降る降らないというのは成仏とは関係がないんですよ。
ですから大聖人様は「和泉式部という淫女が三十一文字をもって雨を降らせた事もある。雨の降る降らないは成仏とは関係のない事である。ただし、それをもって邪法の者は『雨を降らせる』と言った時に現証をもって切る時には諸天を用いて勝負を決する事ができる」とお考えになって、良観房が得意になって「雨を降らせる」という事を始めようとする時に手紙を送られたんですね。
「まず7日間を良観が行い、7日のうちに言う通りに雨が降ったならば自分が良観聖人の弟子となる。
自分が弟子になったならば、我が一門全部もことごとく弟子になるであろう。
その代わり、もし7日間の間に雨が一滴も降らなかったならば、良観房が『自分は二百五十戒を持っている生き仏だ』というような事を言って世間の者を欺いている事は魔のたばかりである事が顕われるであろう」という事を手紙に書いて出した。
ところが、良観はまたここで喜んでしまったんですね。よっぽど自信があったのでしょう。
「法義・法論では叶わないが、今こそ日蓮房を屈服させるのはこの時を置いて他にない」と喜んで返事をして「やろう」と言ったんですね。
で、文永8年の6月18日から7月4日まで行われたわけでありまするが、最初の1週間良観房が威儀を整えて、そして百何十人の僧侶を従えてやった。
ところが、4日経っても5日経っても雨気は一つも来ない。そこで、だんだん良観房が焦ってきた。
大聖人様がお手紙を差し出して「どうしたか」という事を尋ねられる。ますます良観房が焦ってくる。
そこで良観房は「人数が足りないのだ」と念仏宗を始め他の宗派からも集めて数百人でもって野原の真ん中でもって真夏のものすごく暑い中に坊主達が頭から煙を出して祈った。
そういうような祈りをやったんですが、雨は一滴も落ちずに落ちてきたのは数百人の坊主達の汗ばかりだった。
そこでとうとう7日経ったけれども雨は一滴も落ちない。
大聖人様が「どうしたか、雨の祈りはすでに失敗したではないか」と責めたところ良観房は「あと1週間、あと1週間」と言ってきたので「よろしい、あと1週間やれ」とそれをお許しになった。
良観房はまた数百人の坊主を集めて雨の祈りをしたけれども、落ちたのは良観房の涙だけであった。

