ですから、私はこの御文を拝して
「顕正会員は、共に尊敬し、励まし合い、いたわり合い、麗しい団結をもって」
という事を言ってる事はこの事なんですね。
「共に尊敬し」というのは、この仏法を大事に思う心があれば、自然と、健気な信心に立つ人を見て「偉いなあ、本当に、ああでなければいけない」という尊敬の気持ちが湧いてくるじゃないですか。
これはもう何というか「仏法を大事にする」大聖人様に対し自分が忠誠心があるゆえに、同じく、健気に御奉公をする人を見ると、それがどんなに後輩であろうとも「偉いものだ」という気持ちが自然と湧く。
いや、自分が育てた息子・娘であろうとも、信心が立ってきたら「ああ偉いものだ」という気持ちになるのは当たり前です。仏法を大事に思うが故にそういう気持ちが自然と湧く。
ですから、日興上人は御遺誡の中に
「身軽法重の行者においては、下劣の法師たりと雖も、当如敬仏の道理に任せて信敬すべき事」
「信じ敬うべき」とおっしゃってるでしょう。
「健気な信心をもって広宣流布に御奉公する者は、どんな後輩であっても、心から尊敬の心を持たなければいけない」とおっしゃっておられる。
これがすなわち「尊敬し合う」という事なんですね。
で「励まし合う」というのは、この御本尊様をせっかく受持しても、励ますという事がないとともすれば勇気を失うんです、感激を失っていく。
そこに「励まし合っていく」という事が大事。
大聖人様の御書の四百余編を拝見してごらんなさい。全てが
「この御本尊を強く信ぜよ。そして、お題目をしっかり唱えよ」
との励ましに全部が満ちておられましょう。
ですから、先般の『四信五品抄』もそうですよ。一念信解の者の私達弟子に対してどれほどの位をもっているのかという事に対して
「四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するだけではない。諸宗の元祖に勝れる事百千万億倍である」と。
そして、日本国中の諸人に対して
「我が末弟等を軽んずる事なかれ」
とおっしゃる。これはお励ましでしょう。このお言葉を聞くと勇気凛凛となってまいります。
このように、大聖人様は常に励まして下さる。ですから、私達も共に励まし合っていくんです。「後輩に対して、本当に励ましていく小さな太陽になっていく」という事が大事なのであります。
そして「いたわり合い」というのは、同じく日興上人が『遺誡置文』の中に
「随力弘通を致すべき事」
とあるでしょう。
広宣流布に向かって大前進する中に「随力弘通(力に随って弘通)せよ」と。
これは、みんな人それぞれ立場が違い力が違うんです。
健康な人(いわゆる丈夫な人)と、病気の人じゃ違いますよね。
病気の人に対して「健康な人と同じようにやれ」というのは、それは「いたわりの心がない」っていうんです。病気の時にはいたわってあげる。
この最蓮房という人は体が非常に弱かったんです(佐渡に長い事流罪されておったが故に体が弱くなったのかどうかは知りませんけれども)。
そして、大聖人様に対してもう1つの質問をしているんですね。これは「自分は山籠りをしていいでしょうか」と。『体が非常に弱かったから籠りたい』という気持ちを言ったんでしょう。
その時に大聖人様が
「末法においては折伏の時であるから、山に一人籠るという事は末法の修行ではないけれども、病弱であるから籠ってもよろしい。
ただし、丈夫になったらば直ちに身命を捨てて弘通をしなさい」
という事を仰せになっておられる。これは、病者に対するいたわりでしょう。
あるいは、上野殿が15歳でもって発心して、大聖人様の仏法に目覚めて少年ながら勇気凛凛に立ち上がった。その時に大聖人様が身延からお手紙を下さった。そのお手紙の最後に
「人にあながちに語らせ給うべからず。若き殿が候へば申すべし」と。
「まだ15歳の少年であるから、やたらと、腹黒い大人を相手にこの仏法の事を語るには及ばない。そうすると腹黒い者は殿を落とそうとするであろう。年少の若き殿を落とそうとするであろう。 だから、用心深く『純信な相手を見たらば喋ってもいいけど、腹黒い者は、うかつにしゃべってはいけない』という事を殿が若ければ申すなり」
「まだまだ、上野殿が年行かない少年だからこの事を心配して言うのである」とおっしゃっておられる。これはおいたわりでしょう。
ですから、顕正会においても、高校生で信心をやっている者がある。
そういう時においては、先輩としては同時に「学校の勉強も出来てる」というようないたわりの気持ちすら持ってほしいと思うんですね。
このように、それぞれの立場・力に応じて、みんなが楽しく喜んでその立場でもって弘通できるようにおたがいにいたわり合い、励まし合っていく。ここに、麗しい団結ができるんです。
私は今『広布前夜に生まれ出てきた地涌の菩薩の大集団なるがゆえに、顕正会というのは、世間では見る事の出来ない麗しい団結がある』と思っております。
先般の男子部幹部会においても、純粋・熱烈なる信心で、この麗しい団結がなぜできるか。
そして、そのビデオ放映を見ても、四者がそれぞれ全部組織が違ったってみんな同じ感激、同じ決意に立つ。こんな事がありますか。
それこそもう、本当に男子部のああいう集会を見て、それを我が喜びとする。
これこそ「自他彼此の心なく」というんです。
「水魚の思いを成して、そして、麗しい団結を保ってく」という事であります。
『これも、一人の大聖人様を信じ奉り、その御遺命たる広宣流布・国立戒壇建立を目指して進んでいる集団なるが故に、みんなが男女の別なく、組織の別もなく一つの心になってくという事は、大聖人様の今の仰せに叶うべきものか』という事を私は有難く思っております。
ゆえに、必ず「広宣流布の大願も叶うべき者か」というこの御金言も事実として拝する事ができるのであります。