「そうじて日蓮にちれん弟子でしだんとう自他彼此じたひしこころなく、水魚すいぎょおもいをしてたい同心どうしんにして南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなたてまつところしょういちだいけちみゃくとはうなり」

 だいしょうにんさま弟子でしたる者は、自他彼此じたひしの心なく」とまずこの事をおおせになっておられる。これは、しきの中の事ですね。
 自他彼此じたひし自分と他人が「自他じた」「彼此ひし」というのはかれこれです。
 要するに「あっちはあっち、こっちはこっち」とやたらとしきの中でもって対立的たいりつてきかんじょうを持つ事が自他彼此じたひしであります。
 これは、ねじ曲がった自分の心でもってやたらとどうはんしたり、かろんじたり、にくんだり、悪口わるくちを言う。「こういうようなねじ曲がった心を持っては絶対にいかん」という事が自他彼此じたひしという事であります。
 水魚すいぎょおもいをして」というのは、みずさかなというのはお互いに離れる事はできませんよね。なかむつまじい事の例えに水魚すいぎょおもいをして」という事でありまするが、これはだいしょうにんさま弟子でしならばお互いに尊敬そんけいし合ってく」という一つの事であります。

 そしてたい同心どうしんにして南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなたてまつる」と。

 「自分ひとがやれば」というのではない。
 ここに、だいしょうにんさましゅ仏法ぶっぽうの広大なるどうの姿を教えておられる。たい同心どうしんにして」というんでしょう。
 百人、千人、万人、1億人いようとも、そのどうがみんな一つの心になる。体はちがうけど一つの心になる。これがたい同心どうしんです。何で同じ心になれるのですか。
 それは、ただ一人いちにん本仏ほんぶつ日蓮にちれんだいしょうにんを信じたてまつるが故に、1億人いても一つの心になっていく。
 そのように「一つの心になって、だいしょうにん本尊ほんぞんを信じ南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなたてまつる」というこの信心しんじんしょうの所にしょういちだいけちみゃくがあるのである。

しかいま日蓮にちれんづうするところ所詮いわゆるこれなり」

 だいしょうにんさまがこの事をやがて一国に及ぼす。このたい同心どうしんが一国にちる時、これがすなわち日本の広宣こうせん流布るふであり、国立こくりつ戒壇かいだんこんりゅうであり、その時日本が仏国ぶっこくになる。
 さらにその事に全世界の人々が目覚めて、同じく信心しんじんしょうのお題目だいもくとなえる時に、地球上が事のじゃっこうとなる。これがだいしょうにん様のづう所詮しょせんであられる。
 で「この事を目指して、お互いにたい同心どうしん広宣こうせん流布るふを目指すという所にしょういちだいけちみゃくがあるのだ」という事であります。
 まさしく広宣こうせん流布るふを目指して、団結だんけつしてお題目だいもくとなえる」という事をだいしょうにんさまはここでもって強くお教え下さっておられる。

 「しからば、広宣こうせん流布るふ大願だいがんかなうべきものか」と。

 であまつさ日蓮にちれん弟子でしの中にたいしんものこれれば、れいせばじょうしゃをしてしろやぶるがごとし」

だいしょうにんさま弟子でしの中に、もしたいしんの者があるならば(だいしょうにんさまこころに背いて、たい同心どうしんみだす者があるならば)、しろを守るべき立場でありながら、中からしろやぶるのと同じ事ではないか。
 熱原あつわら法難ほうなんの時における大進房だいしんぼうさんぼう太田おおたの親昌ちかまさ等のこういうような背信はいしんの者達は、まさにじょうしゃとしてしろやぶるものである」

という事をおおせになって、まさに

自他彼此じたひしこころなく、水魚すいぎょおもいをしてたい同心どうしんにして南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなたてまつところしょういちだいけちみゃくとはうなり」

「まさに、広宣こうせん流布るふを目指してたい同心どうしん南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなたてまつる。
 このしゅぎょうの中にしょういちだいけちみゃくがあるのだ」とおおせになっておられる。