本日、近畿地方の滋賀県に立派な彦根事務所が開所され、感激でいっぱいであります。
ここにお出ましの御本尊様は日蓮大聖人の御生命、そのお悟りの全体を文字をもって顕わし奉ったものであれば、この御本尊様を即富士大石寺にまします戒壇の大御本尊、即生きておわする大聖人と固く信じまいらせ『有難い』『お慕わしい』との思いで南無妙法蓮華経と唱え奉る事が肝心であります。
大聖人様は、御本尊様に具わる無量無辺の功徳について『観心本尊抄』にこう仰せ給うておられます。
「釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。
我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と。
この元意を端的に言えば「この御本尊には、日蓮大聖人が久遠元初以来お積みになられた尊い功徳が具わっている。ゆえに、我ら若しこの御本尊を受持すれば、自然とその功徳を大聖人様が譲り与えて下さる」と。
日寛上人は『観心本尊抄文段』に
「受持とは当しく信心口唱に当る。
故に『受持即観心』と云うなり」
と御指南下されている。
まさに、かかる大功徳を頂く法術こそが恋慕渇仰の信心口唱なのであります。
ゆえに、私達は何の行功はなくとも今生には生活が守られ、後生は永遠に崩れぬ成仏の大仏果を得る事が叶うのであります。何と有難い事でしょうか。
されば、折に触れ彦根事務所に参詣しては『有難い』『お慕わしい』との思いで恋慕渇仰の信心口唱に励み、滋賀の地より目の覚める大潮流を巻き起こしていこうではありませんか。
改めて申すまでもなく、先生が常に念願しておられたのは「日本の広宣流布を為す上で欠くべからざる東日本と西日本が相呼応する力強い大潮流」であります。
ゆえに先生は、御遺命守護の戦いの最中にも西日本の一粒種を育て、励まし、抜擢され、膝詰めの座談会を重ね、組織を一から構築してこられたのであります。
以前に女子部の総班長が「解散処分直後の昭和50年頃、先生が滋賀県の自宅拠点に足を運ばれ、わずか十数名の座談会を開いておられた」事を発表しておりました。
その折先生は「御本尊様絶対」の確信を打ち込まれると共に「妙信講は遥拝勤行で広宣流布を必ず成し遂げる」と一人一人をお励まし下さったという。
このように、地方に人材が集えば先生御自ら励ましておられたのであります。
そして、西日本各地に会館を建設しては御入仏式に赴かれ、あるいは、数々の地方大会を開催しては西日本顕正会員の信心を育み、組織を構築してこられたのであります。
その最後が御逝去の5ヵ月前の令和5年5月、体力の衰えがうかがわれる中に敢えて強行された愛媛会館御入仏式でありました。
かかる先生の西日本広布にかけられる大情熱を思うほどに、今般西日本で未だ会館がなかった滋賀県に事務所が開設された事を先生は必ずやお喜び下さるに違いありません。
あと残すところの奈良と和歌山の戦いも急ぎ、近畿各県が足並みをそろえて前進していかねばなりません。
そして、唯一御遺命を奉じて立つ顕正会の事務所がこの滋賀の地に開設された意義はまことに大きい。
この滋賀県は日興上人御門下の弘通が当時すでに及んでいた地域であり、また、最後の天奏で御遷化された日目上人の御意思を継いだ二人の弟子が日目上人の遺骨と申状を抱き通った地でもある。
かかる地に、今広布の潮流が巻き起こり、顕正会の事務所が開設された事、これこそ、日興上人・日目上人、そして浅井先生の何よりの御報恩に他ならないのであります。
まず、日興上人御門下の弘通が滋賀にも及んでいた事について少しく触れておきます。
日興上人が顕わされた数多の御本尊の中に「近江の国坂田」という地に住む信徒に授与された御本尊が今に残っております。
現在の滋賀県米原市と長浜市の一部をかつて「坂田郡」と称していた事、また、授与書の名前からその信徒は当時の坂田郡に住む武士であった事がうかがわれます。
そして『富士一蹟門徒存知事』には、日興上人の御本尊授与に対する厳格さを示す件があります。
すなわち
「日興の弟子分に於ては在家・出家の中に或は身命を捨て、或は疵を蒙り、若しは又在所を追い放たれし一分の信心のある輩に忝くも書写し奉り、之を授与する者なり」と。
形木本尊を信心のない輩にたやすく授与していた五老僧と異なり、日興上人の門流においては不惜身命の信心決定の弟子に限り御本尊を授与しておられた。
この事に照らせば、近江の国坂田の弟子がいかに強信の人であったのかが分かります。
交通機関もなく、通信手段は手紙のみ。その時代にあって全国に死身弘法を展開され、かくも強信の弟子を輩出された日興上人・日目上人の「広宣流布朝夕近し」の大情熱にはただただ驚嘆するばかりであります。
そして、この滋賀県の琵琶湖の東側は美濃の垂井から京都をつなぐ経由地であり、日目上人御遷化の後に二人の弟子がこの地を通っておられる。
ここで、日目上人の最後の天奏を簡略に拝見いたします。
日目上人は謗法を続けてきた鎌倉幕府が滅亡し、後宇多天皇の第二皇子である後醍醐天皇が親政を復活させた建武の中興を御覧になり、51年前の弘安5年に後宇多天皇から賜わった御下し文を確実にするためにすでに74歳の御老齢、しかも長年の東奔西走で踝を痛めておられたにもかかわらず、老衰したその老体に鞭を打って最後の天奏を御決意されたのであります。
この時の日目上人のお心を先生はこのように拝察しておられます。
「この大事を為すべき者は自分以外にはない。もしこれを為さねば大聖人様に申し訳ない。
たとえ途上倒れる事があろうとも、その時は弟子にこの申状を奏上せしめん」と。
旧暦の正慶2年11月の初め(現在の新暦で言えば12月の半ば過ぎ)、日目上人は日尊・日郷の二人の弟子を供として再び帰山の叶わぬ事を御覚悟の上で大石寺を後にされた。
途上、日目上人は岐阜と滋賀の県境にある伊吹山の麓に差し掛かり、雪が腰まで積もる中伊吹颪の寒風に手足凍えておみ足一歩も進み給わず。近くの垂井の宿でお休みになった。
日目上人は二人の弟子に「この奏状を必ず天子の下に届けよ」と遺言せられた。
そして、ついに再び立つ事能わず、二人の弟子が守護し奉る中に安祥として御遷化あそばされたのであります。
この時御所持の申状の末文にはこうある。
「日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ」と。
すなわち「御本仏日蓮大聖人の唯一の大願たる国立戒壇建立の大願を天子の耳に入れしめるべく、今この天奏をなしたのである」と。
日目上人は大聖人様・日興上人の御使いとして51年前の下し文を確実にせんと尊き御身を擲たれた。
これこそ、我が命より御遺命を重しとする富士大石寺の源流の御振る舞いそのものであります。
そして、先生は日目上人の御遷化に当たってのそのお心をかく仰せ下さいました。
「謹んで拝し奉るに、この時日目上人が胸に抱かれた思いは『命尽くまで使命を果たさせて頂きました』との満ち足りた御思い、そして、瞼に浮かぶは大聖人様・日興上人の御慈愛に満ちた御温顔であられたに違いない」と。
翻って、先生の「遺命重し、命尽くまで」の大忠誠の淵源をここに伏して拝すると共に「この日目上人のお心こそ先生のお心に他ならぬもの」と畏れながら拝察いたします。
その後、二人の弟子は謹んで日目上人の御遺体を荼毘に付し奉り、日目上人の御遺言のままその遺骨を奉じて上洛し、件の申状を奉呈しております。
先生は「まさしくこれ、日目上人が京都に赴かれたのと同じである」と指導下さいましたが、御遷化されてもなお天奏を完遂された日目上人の凄まじき大忠誠心には大地にめり込む思いとなります。
まさしく、この滋賀の地にはかかる日目上人の最後の天奏における尊き足跡が刻まれているのであります。
ここに今、垂井会館御入仏式において先生が仰せ下さった
「日目上人が御遷化あそばされた美濃の国垂井に、ついに垂井会館を建てる事ができた。これ大聖人様の御守護である。
日目上人のお徳を偲び奉ってこの地に建てられた事、何とも有難い」
とのお心が耳朶を打つものであります。
これをもって思うに、今般日目上人ゆかりの滋賀の地に顕正会の事務所が開設され、いよいよ新たな広宣流布の機運が巻き起こるを霊山にまします先生は必ずやお喜び下さるものと確信しております。
2020年代の後半に至り、いよいよ「仏法より事起こる」の前代未聞の大闘諍と日本への他国侵逼が迫りつつあります。
今こそ東日本と肩を並べる西日本の大前進を急がねばなりません。
されば、滋賀の地よりその起爆剤となる戦いを断固巻き起こし、西日本の大成長を熱願された先生のお心に全員でお応えしてまいろうではありませんか。
令和8年 2月25日 2月度 総幹部会 浅井会長指導
- 説明
- 日興上人の峻厳なる御信心
- 公明党改め中道改革連合の得票数減少の実態
- 今こそ四百万学会員を根こそぎ救わん
- 高市首相の憲法改正の野望
- 高市首相と日本会議・神社本庁とのつながり
- 王仏冥合の憲法制定の必然
- 緊急事態条項の危険性と自衛隊明記の本質
- 日本国の仏法上の本質
- 広宣流布・国立戒壇建立以外に亡国を防げない
彦根事務所御入仏式 浅井会長メッセージ