大聖人様はこのように佐渡から御帰りになって身延に御入りになった。
その時に
「二の日並び出るは、一国に二人の国王並ぶる相なり。王と王との闘諍なり」
とこれほど重要な事を大聖人様が断言あそばした。これが空しくなるはずがないんですね。
で、これは自界叛逆という事でありまするが、自界叛逆というのは、すでに大聖人様が佐渡に流罪せられてわずか100日の内に自界叛逆が起きている。
これは、北条一門の中で時宗の実の兄が謀反を起こして、京都・鎌倉が動乱になったのでありまするが、これはどういう事か。
大聖人様が「流罪・死罪にした北条一門に、いかにそれが大きな罪障であるかをその罰を見せて改悔せしむるために諸天に起こさしめた自界叛逆である」と仰せになっておられまするが、ここに『法華取要抄』に仰せの「王と王との闘諍」というのは、いわゆる日本国の中心である天皇が2人立って、そして争うという。これは前代未聞の事でありまするが、この事を言い切られている。
これはどういう事かと申しますると、歴史学者が言ういわゆる「両統迭立」という事の現証ですね。
「両統迭立」の「両」は両方の両。
「統」というのは血統とか系統とかの事をいう。ここでは、皇室の系統の事を言うんです。
「迭立」の「迭」というのは「大臣を更迭」とよく言うでしょう。失うという字に之繞と書く。
そして「立」は立てるですね。
「両統迭立」とは、これは、2つの皇室の系統から相互に天皇を立てて、さらに「その天皇を立てるに当たっては、幕府がこれを左右して介入した」というような事が大聖人様の御在世には起きているんですね。
というのは、この『法華取要抄』が文永11年の事でありまするが、その2年前の文永9年の2月に後嵯峨天皇という方が亡くなられました。
この天皇には2人の皇子がいたんですね。
第一皇子が後に後深草天皇になる。第二皇子が亀山天皇になる。
そして、父の後嵯峨天皇が亡くなられた後において、この2人の天皇の系統がそれぞれ争ったんですね。
そして、その争いを幕府が調停をして、幕府の意向でもって天皇が決められるようになって「今度はこちらから」「今度はこちらから」と交互に両方の系統から天皇を立てるという事を「両統迭立」というんですね。
それが、やがてどういう事になったか。それがやがて50年続いて、あの日目上人が最後の天奏を後醍醐天皇になさった。
その直後において、両統迭立は一旦は後醍醐天皇が統一して建武の中興になったんですが、あっという間に崩れて、今度は「南北朝」といって両方の朝廷から(すなわち後深草天皇の方を「北朝」という。亀山天皇の系列を「南朝」というんです)この南朝と北朝から同時に天皇が立ったんです。これが「王と王との闘諍」なんですよ。
「一国に二人の国王並ぶる相なり」
それが、まさにその始まりが両統迭立として、大聖人様が身延の山中に御入りになってからそのような現証が日本国に起きてきた。
これは、北条一門の同士討ちとは違って、日本国を揺り動かす深刻な自界叛逆である。
ですから、両統迭立がやがて南北朝の大抗争となって、これが戦国時代の入り口となって、その後百数十年に渡って日本列島が血で血を洗う戦国時代となって、そして織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という武家の圧政が続いて幕末に至るんです。
これが「大聖人御入滅後幕末までの五百数十年は自界叛逆の時代、そして、明治維新以降、今度は外国との戦いとなる」という事を常に私は申しておりまするが、こういう事に、大聖人様の御入滅後において三大秘法を立てなければそういう罰の姿が現われてくる。
これが、日興上人の
「所詮末法に入って法華本門の正法を立てられざるの間は、国土の災難日に随って増長し、自他の叛逆歳を逐うて蜂起せん」
「大聖人御入滅後において三大秘法を立てなければ、国土の災難は日にしたがって激しさを増し、自界叛逆・他国侵逼は年とともに激しくなる」
との仰せそのままですね。
自界叛逆は、この両統迭立、南北朝から始まっていってずーっと幕末まで続いた。
平成22年 12月5日 浅井先生指導