それから約2かん、私は一念込めてお話し申し上げた。
 今回の宗門しゅうもんの処置がいかに理不尽で卑怯ひきょうであるか、そして、この背後には遺命ゆいめいを破壊せんとするいけ大作だいさくがいることをよくよく申し上げた。
 そしてさいに私はこう申し上げたんです。
 「妙信講みょうしんこうを守ってくださいとは申しません。どうか、だい聖人しょうにんさまとして遺命ゆいめいを守りたてまつるのけつにお立ちあそばしませ」ということを申し上げた。この時時刻はもう0時半を過ぎておりました。
 ついに松本まつもと日仁にちじんそんのうは身を捨てるけつをその時にしてくださった。
 すると、それまで土気色だったお顔に血の気がさし、頬が桜色にかがやいた。そして私にこうおおせられた。
 「もしこのまま何もせずに死んだら、本当にだい聖人しょうにんさまに申し訳ない。残るわずかな命はだい聖人しょうにんさまに捧げたい」とこうおっしゃったんです。
 松本まつもと日仁にちじんそんのうは夜の明けるのを待ってほそ日達にったつ管長かんちょうに一通の電報を打たれた。
 その文面は「じゅうしょくだいしゃの件はお断りいたします」ということでありました。
 その翌々日、松本まつもと日仁にちじんそんのうじゅうしょくめん処分しょぶんくだされた。
 同時に、新任のじゅうしょくふくじゅうしょくの二人がみょうえんに送り込まれてきた。この時に、4人の学会がっかいべん護士ごしが一緒についてきたんですね。
 べん護士ごしたちは松本まつもと日仁にちじんそんのうじゅうしょく室から追い出して、奥の小さな一室に閉じ込めるとこうって脅かしたんです。
 「このまま行けばじゅうしょくめんだけでは済まない。必ず擯斥ひんせき処分しょぶんとなる。だから、げいおおせ通り早く妙信講みょうしんこうと縁を切りなさい」とこうった。
 すると、松本まつもと日仁にちじんそんのうは毅然として4人のべん護士ごしにこう告げられた。
 「私は生きていてもあと1年くらいだとおもっている。このわずかな命、もうだい聖人しょうにんさまに捧げるけつをしているので、何があっても怖くはない」とこうったんです。
 べん護士ごしたちはこれを聞いて皆下を向いて黙ってしまった。
 さらにこの日、みょうえんの総代でありかつほっこうれんごうかいふくかいちょうをも務めていたとう悦三郎えつざぶろう松本まつもと日仁にちじんそんのうを説得するためにやってきた。
 べん護士ごしのいうことも聞かない。ならば今度はみょうえんの総代がということでその日に来たんです。
 そして「早く妙信講みょうしんこうと手を切ってげいにお詫びをするように」ということを勧めました。
 松本まつもと日仁にちじんそんのうはこの時こうわれた。

 「在家のあなた方には教義のことは分からないかもしれないが、実は、しょうほんどう遺命ゆいめい戒壇かいだんではない。国立こくりつ戒壇かいだんが正しいのです。
 今妙信講みょうしんこうが命がけてやっている奉公ほうこうこそ、本来なら自分達僧侶そうりょがやらなければならないことなのです。
 このことを今までわなかったのは僧侶そうりょとして恥ずかしい」とこうおっしゃった。

 これを聞いたとう悦三郎えつざぶろう仰天ぎょうてんして、ただちにそのままを本山に報告いたしました。
 かくて、昭和49年12月25日、ついに松本まつもと日仁にちじんそんのう擯斥ひんせき処分しょぶんを受けたのであります。
 「擯斥ひんせき処分しょぶん」というのは「宗門しゅうもん追放」ということですよ。何たる残酷ざんこく、そしてれつ処分しょぶんか。
 いいですか、ほそ日達にったつ管長かんちょう自身もかつては国立こくりつ戒壇かいだん建立こんりゅうこそ日蓮にちれん正宗の使命である」ということを『だいびゃくれん』の35年1月号にべているではないか。
 またいけ大作だいさく国立こくりつ戒壇かいだん建立こんりゅうこそ日蓮にちれん正宗の宿願であり、また、そう学会がっかいの唯一の大目的なのであります」ということを『だいびゃくれん』昭和31年4月号に叫んでいたではないか。
 しかるに、いけ大作だいさく国立こくりつ戒壇かいだんを否定するや、ほそ日達にったつもこれにへつらって、正直の僧侶そうりょの首を切ってしまったんです。
 松本まつもと日仁にちじんそんのうは12歳で出家して83歳の老齢に至るまで固く富士大石寺の僧侶そうりょとして精神しょうじんされ、一分いちぶんの過失もない。
 この老僧に対し「妙信講みょうしんこうに味方して国立こくりつ戒壇かいだんを正しいとった」との理由でもって宗門しゅうもん追放した。
 このどうれつ残酷ざんこく、私はこれを忘れない。


令和5年 6月26日 6月度 総幹部会 浅井先生指導

令和5年 6月28日 6月度 男子部班長会 浅井総男子部長指導