さて、日目にちもく上人しょうにんがお生まれになったのはいつであるか。
 これは、すなわちだい聖人しょうにんさまが『立正りっしょう安国論あんこくろん』をもって国主こくしゅ諌暁かんぎょうあそばした文永元年ですね。この年におまれあそばした。
 富士山の見える伊豆いずの国のはたの郷(伊豆いず半島はんとうの中にありまするが)、そこで御誕生なされたわけであります。
 父上は、現在のみやけん登米市とめしに当たる奥州三迫さんのはざまにいの領主とにいろう重綱殿しげつなどの、母上はうえ殿どのの一番上のおねえさんのれん阿尼あにというお方であります。
 奥州三迫さんのはざまにいの領主の下に日目にちもく上人しょうにんが御誕生あそばしたのはなぜかといえば、父上のにいろう重綱殿しげつなどのばくつかえる立場だったんですね。
 それで、つねみやけん奥州三迫さんのはざまから伊豆いず半島はんとうはたの郷に駐在ちゅうざいしておられた。そこで、日目にちもく上人しょうにんがお生まれになった。
 そして、母上はうえ殿どのの一番上のおねえさんのれん阿尼あにというお方であるから日目にちもく上人しょうにんうえ殿どのおいに当たるんですね。
 日目にちもく上人しょうにんは幼名を虎王丸とらおうまると名付けられました。
 そして、日目にちもく上人しょうにんは13歳の時に近くの走湯山そうとうざんというてんだいしんごんの大寺院が熱海のはしりにあるんですが、そこに学問修行のためにお登りになった。
 この走湯山そうとうざんはもともとはてんだいしゅうの大寺院でありまするが、いつの間にかしんごんの毒が流れてきてしんごんしゅうまってしまった。
 当時は学校がありませんから、武家の子弟というのは寺にもうでて学問をするということが習わしになっておったわけであります。
 そして、文永11年に15歳の日目にちもく上人しょうにんは初めてそこで日興にっこう上人しょうにんに遭いたてまつった。
 それは、日興にっこう上人しょうにん伊豆いず方面全体に折伏弘通を進めておられた。
 その弘通のついでに走湯山そうとうざんに立ち寄られたのであります。
 おそらく、前もってうえ殿どのからこのようなことを耳にしておられたにちがいない。
 「おい虎王丸とらおうまる走湯山そうとうざんただいま学問をしております」ということを耳にせられた。
 ために、伊豆いずの弘通のついでに日興にっこう上人しょうにん走湯山そうとうざんに立ち寄られたものとおもわれます。
 その折日興にっこう上人しょうにん走湯山そうとうざん随一ずいいつがくしょうわれたしきそうと法論をされたんです。
 そして、このしきそうかんなきまでにしゃくされた。
 その理路りろ整然せいぜんとしてはくに満ちたお姿を拝見して日目にちもく上人しょうにん驚嘆きょうたんされたんですね。
 目の前で、今まで『えらい』とおもっておった大学匠だいがくしょうしきそう日興にっこう上人しょうにんかんなきまでにしゃくされた姿に驚嘆きょうたんいたしました。
 さらに、その後日興にっこう上人しょうにんから一対一いったいいち諄々じゅんじゅんと「日蓮にちれんだい聖人しょうにんさまがいかにとうとだいなお方であられるか」ということをお聞きして、日目にちもく上人しょうにんはたちまちだい聖人しょうにんさまを深く信じたてまつり、れん渇仰かつごうたてまつったんです。
 そして「おにしていただきたい」ということをその席で日興にっこう上人しょうにんに申し出られた。


令和3年 11月15日 日目上人御報恩勤行会 浅井先生指導